第31話
『‥‥あの』
『‥‥』
『‥‥あのっ』
傘を差し出しながら、男の顔を覗き込むようにして屈む。
骨張った肩を擦るが、硬く閉ざされた瞼は微動だにしない。
『‥‥ぁ‥‥あ』
ひとまず生きていることに胸を撫で下ろすが、目が虚で、目の前にいる私を認識しているのかも定かではない。
『私の声が聞こえますか?』
『‥‥ぁ‥ぐ』
掠れ切った苦しげな声に咄嗟に水を差し出すと、突然怯えるように後ずさった。
『ただの水です』
まるで、凶器でも突き付けられたかのような反応だ。
動かない足を引き摺ってまで逃げようとしている。
『言葉を理解できますか?危害を加えるつもりはありません』
先に水を飲んで無害であることを証明するが、態度に変化はない。
もしかして、人そのものが怖いのだろうか。
それに、違和感がある。
まるで、言葉を言葉として理解していないような。
このご時世、文字を書けないことはおかしいことではないが、言葉そのものを理解していないとなると別だ。
『もしかして、どこかから逃げて‥‥?」
再び倒れ込んだ体を支えながら、水を口元に寄せる。
『飲んで下さい』
「‥‥」
『お願いです。あなたを、助けたいんですっ‥‥』
自分でも信じられないような言葉だった。
父親が死にゆく時も、生きてほしいとも助けたいとも思わなかったのに。
見ず知らずの男相手に、どうしてこんなにも心が揺さぶられるのか。
いつか葉山さんにそうしてもらったように、落ち着かせる為に抱き締めると涙に濡れた男の瞳が私を映し、何度か瞬きを繰り返した。
『け‥‥て』
「‥‥はい」
『‥‥たす、けて』
路地裏で、この世の全てに怯えながらも、男は救いを求めていた。
こんな成りでも必死に生きようと、助かろうとしていた。
ーー私とは、違う。
やがて堰を切ったように水を飲む男を支えながら、雨か涙が瞳から零れ落ちていった。
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