学サー1-22

 みつきさんはナンを掴み上げるとまた食べることに没頭し始めた。緩慢かんまん気怠けだるげな語り口から変わり、その動作には生気があった。僕もまた飯を口に運ぶ。やはり顎が重たかった。みつきさんは三本目の酒に手を出す。人目を気にせずラッパ飲みにする彼女の所作を美しいと感じた。

「変に情感を込め過ぎたな。こんな話ができる人もいないから。すまんね。とにかく五稜は御神みかみの分霊に危害を加えた。そしていなくなった。私は生きていた。私は動けぬまま川に流されたけれど死にはしなかった。死せぬまま、それから一向によわいも重ねられぬまま今ここにいる。これは拾った命では無い。私は人間として生を全うしたかったし、のうのうとある五稜が憎い。逆恨みさ。軽蔑するか、少年」

 問いかけの言葉とは思えなかった。だから僕はイエスともノーとも応じなかった。

「あの、こないだのはじゃあ、やっと追い詰めたってやつですか」

「ああ」

「あれ、何したんですか。先生、腕が」

「呪いみたいなものかな。呪いの術で殺してやるつもりだった。でも逃げられた。たぶん異界に入られた。腕は、まあ、あれはもともと五稜の腕じゃ無い。何か移植していたんだろうさ。弱い部位から崩れていく。そも、滅してやるつもりだったんだ。あれは人じゃない。落ちた腕なんて気にしても仕様が無い」

「人じゃない? 先生が? 人って、人間ってことですよね。人間じゃない? で、でも話が本当だとして、先生は、食べられるところだったみつきさんを助けたんじゃぁ」

「いつか機会がくれば話そう。違ったんだ」

 この女は本当に核心を話しやがらん。口数が少ないわけでないのに説明責任を果たさぬ。

 超常的な何かの存在は、目の前で見た。疑うべくも無い。だけれど僕の身につけてきた常識群とはあまりにも乖離かいりし過ぎており、話を聞き、ああそういうことだったんですねとに落ちることは一切無い。

 みつきさんがナンを摘み上げる。こんな長い爪をしてよくも器用に食べるものだ。窓からの日差しは相変わらず白い。車の通りがかるたび跳ね返る陽光が卓上に踊る。みつきさんはまたビールを掴む。僕もルウを塗りたくったナンを口いっぱいに放り込んだ。

「少年。これがこの間のお礼な」

 茶封筒が差し出される。あの時と同じく紙の束が噴き出てくるのでないかと少し躊躇ちゅうちょした。僕はもごもごと口を動かしそれを受け取り中身を見ぬままテーブルに置いた。

「で、ここからが本題なんだけど、もうちょっと手伝ってくれないか」

 僕にとっての今日のメインは先ほどまでの話題だったのに。いなされたのだろうさ。けれど詰問きつもんする気にはなれなかった。

「美咲さんの件。そして上野さん、だっけ。符のこともある。それらにも五稜が関わっていよう。五稜は君達を使って何かを成そうとしていた。君達の周りの不可解な事件は奴が人為的に引き起こした怪異なのじゃないかと考えられる。些細なことで良い。身の回りのおかしなことを。おかしな出来事があれば調べて報告してほしいんだ。当然お礼はする。情報をお金で買おう。どうだい、頼まれてくれないかな」

 みつきさんは後藤先生が全ての原因だと決めつけているわけだ。僕達の失踪やら些細なアタオカやらに至るまで。

「先生が諸悪の根源て思ってるんですね」

「そう」

「じゃあ僕らのサークルのこともですか」

「まず間違い無く、その通り」

 渚が動くネックレスを目撃した時もそうだったのだろうか。窓からの風景も僕らを除いた店内の営みも全てが普段通りだ。後藤先生が掻き消えた時にも思えば蝉の音が漏れていた。ほんの少しだけ距離を置き周りは依然見知った日常を続けている。それでも渚は学校に顔を出した。僕もだ。異常の片鱗は胸の中に残っている。荒唐無稽なのだ。咀嚼し切れない。噛み切れなかった肉の筋が奥歯に挟まるように、僕の心にも異物が引っかかっている。

 僕はゆっくりと首肯しゅこうした。それを見てみつきさんも頷いた。

「だけど、ひとつ教えてください。これだけは絶対答えてください。なんで僕だったんですか。後藤先生の部屋に行くの。あの封筒、紙。そもそもあの紙はなんだったんですか。あなたがひとりでやれば良かったんじゃないですか。僕あの場で必要でしたか。なんで僕だったんですか、マジで。僕が行く意味なんて無かったですよね」

 みつきさんは背筋を正し向き直る。車から反射された光が食べ腐しのカレー皿の上を駆けていく。僕はそれを目線だけで追った。

「すまなかったね、少年。怖い思いをさせてしまったね」

 違う。そうじゃない。そうじゃないんだ。何で分かってくれない。

「なんで君だったか、だけれどね。私じゃあ警戒されていたろうからだよ」

 これも違う。答えになっていないだろう。馬鹿じゃないのか。

 僕はカレーを掻き込んだ。カイエンペッパーがピリリと利いた気がして僕はグラスを引っ掴んだ。

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