学サー1-20

 数日が経ち、みつきさんは待ち合わせ場所にカレーバーを指定してきた。現れた僕に「おぅい、こっち、こっち」と手を振る。ちらほらと目につく男どもが視線を奪われていた。店の冷気にさらされた肌から汗がだらだらと滴り落ちた。僕は供された水を一息に飲み干した。店員が「今日暑いですよね。すぐお代わりおぎしますね」とやる。僕は頷いた。

「私、サグパニールで」

 みつきさんが聞き慣れぬ品を注文する。僕も慌ててメニュー表をる。カタカナばかりで目が散る。「同じので」きゅうしてそう発するしかできなかった。この女にただしたい事柄が多過ぎた。うまく頭が回らない。僕はポケットの中のお守りを握りしめた。大学受験の時の学業成就のものを持ち出して来ていた。用途をたがえているのは分かっている。何かに縋り、何かの安寧あんねいが欲しかったのだ。

「まず、聞きたいことがたくさんあるんですけど、後藤先生はどこに消えたんですか」

 僕はそう発した。口にしながらまだ喉が渇いていた。グラスを引っ掴み思うまま水を流し込んだ。出がけのニュースで今季一番の暑さと言っていた。差し込む日差しから疑うべくも無い。みつきさんは今日も涼しげな格好で現れた。流れる汗をおしぼりで抑える僕を見やりみつきさんは目尻を細める。

「その前に、新庄さん、まずはお手伝いくださりありがとうございました」

 そうやってお茶を濁すつもりなので無いか。ややあっておもてを上げるみつきさんの目から僕は視線を外さなかった。吸い寄せられるように綺麗な瞳なれど、どうしてかこの人の目には光が無い。髪の先端から爪先まで全てが輝いて見えるこの落雁美人らくがんびじんの虹彩を画家はどうやら塗り忘れてしまったようだと、午前いっぱいかけて中国文学のレポートを仕上げていた僕は薄ぼんやり思っていた。

「ん、分かった。正直に答えよう。信じないだろうけど」

「信じるとかってのは分からないですけど、僕だってもう当事者なんです。ももかさん、後藤先生はあなたがどうかしたんですか」

「違う。失敗した。逃げられた。私の手で消してやりたかったけど。駄目だった。それにあいつの本当の名前は後藤じゃ無い」

「偽名ですか。何のために。そもそもあなただってこれ源氏名げんじなですよね。消したかったて、まさか、殺そうとしたってことですか」

「ああ、殺そうとした」

 店内が閑散としていて良かった。僕はそう思った。みつきさんの目に少し火が灯った気がした。みつきさんの語気は強かった。冗談とは思えなかった。僕まで悪者と見られてしまったらどうしようと、僕はそんな焦りから周囲を警戒し、誰の目もこちらを向かぬことに胸を撫で下ろした。

「信じろとは言わんよ。動漫どうまんの筋とでも思ってくれたら良い。私もあいつも普通の人間じゃ無い。私は元亀げんき年間の生まれ。数百年は生きている。あいつは、もっと昔から存在するのかも知れない。五陵昌綱ごりょうまさつなと呼ばれている悪い奴だ。ああ、私は下河辺みつきと言う。本名はまた別だが長いことそう名乗っているからして、これがきちんとした名前みたいなものだ」

 ああ、本当に突拍子も無い。まだけむに巻こうとしているのか知らん。そもそもゲンキ年間てなんだよ、いつだよ。フィクションの設定ならもっときちんと練ってほしい。

「後藤先生が、その、五稜なんとかが悪者だとして、なんでももかさん、や、下河辺さんが」

「みつきで良いよ、少年」

「はい、じゃあ、みつきさんがなんで」

「殺そうとしてるのかだろ」

 ここでサグパニールとやらが運ばれてきた。緑色のカレーだった。店員に話を聞かれるのがはばかられ僕は口をつぐんだ。みつきさんは早くもナンをちぎりにかかる。先ほどまでの険しい表情とはうってかわり、みつきさんは頬をほころばせ食事に向き合う。そういえば初めて見かけた際にもカレーを食べていたのだっけ。何も言えなくなってしまった。手を合わせ、僕もならって口に放り込む。くどくなく、辛すぎず、野菜の甘味がよく溶け込んだルウだった。

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