学サー1-18

「失礼します。人文じんぶん二年の新庄ですが」

 後藤先生は机に向かい何かの書き物をしていた。室内だのに山高帽やまたかぼういただき、窓からの逆光もありハリウッド映画のヴィランのごとく思えた。

「はい、どうなさいましたか」

 後藤先生はまだお若いだろうに、一個の完成された人間として見える。変な感想だよな。遊びの余地の無い人格というのだろうか。老獪ろうかいに感じ人物像が視覚情報と一致しない。

「上野のことで少し相談がありまして。あ、同じサークルの、農学部の、上野健二のことです。後藤先生このあいだ上野の家まで来てましたから」

「連絡のつかない件ですね」

「はい、そうなんです。心配で。それで、先生、これ、上野の」

 みつきさんから言付ことづかった茶封筒を差し出す。先生は何の言及も無くそれを受け取る。上野のことが心配というのは嘘じゃあ無い。掛け値の無い言葉だったからこそ先生は何もいぶかしがらなかった。

 その中に何が入っていてどのようなことが起こるのかだなんて僕は聞かされていなかった。

 突然、それに触れた後藤先生の右手から煙が上がる。喫驚きっきょうの声を発しながら先生は封筒を投げ捨てる。封筒から白い紙が躍り舞う。ぺらぺらの茶封筒のはずだったのに。後から後から紙が吐き出される。大量の白い紙が中空に舞う。

「新庄くん、一体、これは」

 後藤先生がこんな大きな声を出す様だなんて初めて見た。僕も余りのことに動けないでいる。床に積もりゆく紙には文が書き連ねてあった。かろうじて「はらたまひ」との文字列だけは視認ができた。

「新庄くん、また改めて事情を話してもらうよ」

 先生はしゅぅしゅぅと煙を吐き出す腕を押さえ僕をめ付ける。この先生のこんな冷たい瞳は初めて見る。舞う紙が噴水のようでいて、その中央でよろめく後藤先生の様は映画のワンシーンのようだった。先生は僕を押し退け入り口の戸に手をかける。僕は尻餅をつく。僕にとってもこの状況は異常事態だ。ただ見やるままあるしか無かった。

「なんで開かない。なんで開かんのだ、新庄、何をした。何をした、答えろ新庄」

 何をと言われても僕にだって分かんないんよ。言葉は出ていかなかった。必死の形相ぎょうそうで戸を揺らす先生の姿が恐ろしかったからだ。たとい何と答えても口を開くだけで僕は殴られていたのでなかろうか。

「無様だな、五陵ごりょう

 なぜだ。いつの間にか目前もくぜんにみつきさんが立っていた。耳から下がるチェーンピアスは微動だにしない。慌ただしくあるこの空間において驚くほどに静かなたたずまいだった。先生は振り向きぎょっとした表情を見せる。

「もう観念しろ、五稜」

 みつきさんが告げ、先生の右腕がずるりと取れた。僕は小さく悲鳴を上げた。先生もみつきさんも僕の方へは見向きもしない。両者ともに互いだけを見据え対峙たいじしていた。腕からは血の代わりにすすのような煙が上がり、その異臭に吐き気が込み上げる。獣の焼ける臭いと形容するのだろうか。場を直視していては僕が僕で無くなってしまいそうだった。

「そうか、君か。八十年ぶりかな」

「そのくらいね」

 みつきさんが鞄から煙草たばこを取り出し火をつける。ライターが筒の先を灯す間に右手は耳のあたりの毛髪をかきあげる。ふっと吐き出された煙は後藤先生の顔にかかる。先生の表情が一段と険しくなる。みつきさんが煙を押し抱くようにし胸に手をあてる。いつか見た後藤先生の所作と似ていた。厳かたり、目が離せない。

 先生がロッカーに手をかけ棒状の物体を……や、刀だ。日本刀じゃないか、これは。なんでこんなものが部屋の中にあるんだよ。さやを足で押さえ上身かみを露わにすると即座に上段の構えをとる。みつきさんは動じない。それでもまだ手は左胸にある。

 つと、落ちた腕が僕に向かって跳躍する。独りでにだ。思わず悲鳴が出た。不快な虫が目がけてくる様に似ていた。脳が物体をそうと認識するより先に僕は叫び声を上げながら振り払っていた。目を瞑る。今のは先生の腕だった。何もかもが異常だ。訳が分からない。これは夢じゃなかろうか。そうだ、夢に違いない。だって来週からテスト期間な訳だろう。ストレスだ。ストレスでおかしくなっているんだ。目が覚めたらスーパー銭湯へ行こう。ズル休みして朝からビールを開けてしまおう。もうたくさんだ。

 目を開けるとみつきさんが駆け出すところだった。どう覚めて良いものか分からない。これは夢じゃ無い。後藤先生が刀を振り下ろす。みつきさんの伸ばした腕を掠めていく。そうして、気づけば先生は消えていた。え、またも意味が分からない。いないのだ、先生が。みつきさんが吸い殻を床に叩きつける。悪態とともに靴で踏みにじる。先生の腕だけはまだ僕のすぐ傍らに落ちていた。謎のガスと臭気とを撒き散らしながら転がるそれは現実に穿った異物のようであり、これさえ五感の外から失せてしまえばまた元の日常が訪れるので無いかと僕はまぶたを何度もまたたかせた。

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