学サー1-16

 あの二度目の悪夢から覚め、僕は学校をサボりスーパー銭湯へ来た。大翔にも声をかけてみたが、テスト前最後の講義だから休めないのだと断られてしまった。

 熱い湯の中にかると気持ちが随分と楽になる。いま思えばこれは悪夢とも呼べない代物しろものだった。悪漢に追われたでも無く怪我をしたわけでも無く、ただ雰囲気が恐ろしかったというだけに過ぎない。けれど僕の身体はこの夢を生殺に関わることと誤認してしまっている。後から後から汗が出た。

 湯水の流れる音が室内に反響する。薬臭い蒸気にむっとした。皺々しわしわのおじいさんが背の皮と男性自身とをぶらぶらさせながらサウナへ向かい、「こりゃちんちんがあっついのぅ」と独りごちた。僕は笑った。指の先まで温まってきた。

 銭湯へ行ったならばコーヒー牛乳は欠かせない。なんだって湯上がりのコーヒー牛乳はあれほどに美味いのか。瓶だ。瓶のタイプが良い。本当は蓋が紙のタイプが良いのだが生産が終了したと聞く。そろそろ甲子園が始まろう。去年の夏はおっちゃんらが休憩室につどっていた。どこそこのピッチャーが快投したのだと場が沸けば、「おう、兄ちゃん、釣りでコーヒー牛乳買うてやるわ」と。あざす。今では入湯の回数券まで買ってしまった。これも大学に入るまで知らなかった世界の一つだ。

 カシュッ。タブが軽快に跳ねる音がし、「かぁぁぁっ」とのおらび声が聞こえた。女声だった。付け放しの情報番組のガヤと合わさり嫌に存在感があった。フットマッサージャーに腰掛け誰あろうみつきさんがそこにいた。今の汚らしい発声が彼女のものだとはどうしても結び付かなかった。キャミソール姿で太腿を揉ませながら缶ビールを口にする。この時の僕から見て彼女はももかさんだった。飲み屋勤務の胡散臭い女だ。だとして外見は絶世の美女たる。三つ指をつき首を垂れた姿は絵画から抜け出たようであった。そのみつきさん(ももかさん)がおっさん然とスパ銭にある。

 ふいに僕のスマホが鳴る。僕は瓶を卓に置いてみつきさんへ背を向けた。

「あ、雅人くん」奈々子だった。「なんか前原先輩、既読つかんくて。あれ、もしもし? ねえってば?」

 上野の時と酷似している。まさか。そんなはずは無いよな? そんなはずは。

 僕は、分かっただとかとんちんかんなことを発し早々に通話を終えた。脇がじわりと湿ってきた。また風呂へ入り直そうか。時間はある。良からぬことに結び付けて考えるのは悪い癖だ。落ち着こう。また薬湯で温まれば良いでないか。

「新庄さん」

 しまった。この女に気付かれてしまった。なんとなく罰が悪い。言葉がうまく口をかず、僕は不恰好に頭だけ下げた。

「一別以来ですね。こんな格好ですみません。もう夏休みですか?」

 僕はコーヒー牛乳の瓶を掴み直す。しかし口をつける気が失せ握るままにした。みつきさんがビールの缶を掲げて見せる。僕も少し傾けてみれど、やはり口元へは運べなかった。け放したテレビから芸人のオーバーリアクションの声が響き、いたずらをとがめられた小児のごとく萎縮してしまった。

「すみません。プライベートな時間にお邪魔してしまいましたね。けれど、新庄さんとはぜひまたお会いしたかったのです」

 綺麗なお姉さんにそうと言われて嬉しく思わないだなんて。もう不審者とは思わねど、僕の中でこの方は苦手な人物として記憶されてあった。高校の頃の数学の漸化式ぜんかしきみたいだ。点の取り方は分かる。でもよく分からないままに解法を記すから応用ができない。話しかけられたのなら応じれば良い。コミュ障気質では無かったろう。バイトだって接客業じゃないか。「どうも」これだけで良い。あとは「暑い日が続きますね」「これからもうひと風呂浴びたくて」「では」それで済んだはずだろう。

 立ち尽くす僕にみつきさんは言葉を続ける。平日といえどなぜ誰も休憩室にいない。誰か。この空気に耐えられなかった。

「私のお渡しした名刺、燃えませんでしたか」

 もう意味が分からんのよ。下河辺みつきはエスパーに違いない。僕は思わずポケットに手をやった。財布はちゃんとある。盗まれてなどいない。見られてなぞいない。

「たぶんおかしなことばかりで不安にお思いでしょう。この件で少しお手伝いいただきたいんです」

 主導権はどこまでもみつきさんにある。僕の首は気付かぬうち縦に触れていた。

「ありがとうございます。でしたら明日、後藤先生とおっしゃる方に、」

 僕は手を掲げ制した。みつきさんが黙し小首をかしげる。

「あの、敬語、使わなくて良いです」

 みつきさんは少し思案した様子を見せ頷く。

「では、新庄さん、失礼して楽に話します……話すね」

「や、あの、本当にいつも通りで」

 ちょうど時間が到来したようでマッサージャーが動きを止めた。みつきさんはビールを一息に飲み干すと立ち上がる。両手で空き缶を握り、次の瞬間、それはくしゃりと、手の中で小さく畳まれてあった。

「じゃあ、お言葉に甘えて。新庄少年、バイト代を出すからちょっと頼まれてほしくてね」

 みつきさんが自販機に小銭を入れる。銀色の缶を二本取り出すと、片一方は僕の元へ投げて寄越す。飲み口から溢れ出る泡に四苦八苦する僕を見やり、いつもよりアイラインの薄いみつきさんは、目尻に線を刻みながら白い歯を覗かせた。

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