学サー1-14

 また夢を見た。

 ここは自分の部屋であるはずだ。はりつけにされたかのように四肢が動かない。かろうじて首だけは動く。布団に挟まり抜け出せない様がはえ取り草の罠にかかりもがく虫のごとくに思えた。日の出もまだだろうに空は白んでいるようだった。勤勉なニイニイゼミがもう活動を始めている。例によってまた壁に添い幾人いくにんかが正座をしているから、これは夢なのだと気づくことができた。肩から上が薄闇に紛れ見えない。あの綿パンは大翔だろうか。横のカーゴパンツは渚だろうか。皆、手に飲み物の缶を握る。

 クーラーを点けたままあるというに背はぐっしょりと濡れていた。汗だ。タオルケットが口元にまでずり上がり息苦しい。四肢は動かない。自分の手足はどうなっている。首を振り振り試みるも掛け布団は退いてくれない。苦しさに目眩めまいがする。どうか早く目覚めてくれ。

 そのうち、ずるりずるりと、何かを引きずる音が耳に入る。僕は思わず視線をやる。ちぃちぃと飛び込む蝉の音に紛れ込み、いる、何かが。ワンルームだぞ。ダイニングも無いちっぽけな居室だぞここは。見える範囲にこれだけ人が押し込められてあるのに正座をする怪人物たちの存在感は希薄に等しい。対し、ずる、ずると、黒く靄を纏う何かが、圧倒されるほどのプレッシャーを散らしながらこちらに進む。来るな。なんだこいつは。思わず瞼を固く閉じた。

 ずる、ずる。音は一定のリズムで近づく。布団越しにも肌がひりつく感覚がある。それ程までに音の主の存在は大きかった。硬質な物体を擦る音では無い。柔らかく大きな何かが僕を目指して近づいてくる。

 ずる、ずるり。永遠にも思えた。

 ……そうして、どれだけの時間が経ったか。やっと静謐せいひつが訪れた。

 けれど感覚で解る。それはいま僕のすぐ傍にいる。代わりに自身の心臓の鼓動が響いてきた。血液の巡る音まで聞こえる。うるさい。恐い。これが死というものなのかもしれない。何も考えず口ばかりぽかんと開け歩んだ人生だった。僕はもう死ぬ。違う、これは夢だ。次の瞬間には死ぬ。違う、夢なんだろうこれは。そのはずだろう。

 そのうち音の主はきびすを返す。ずず、ずるりと、僕の元から離れて行く。

 早く。早く過ぎ去ってくれ。

 前に見た悪夢で大翔たちの首が切り落とされたように、僕も今日、夢の中で殺されてしまうのだと感じていた。脅威はまだ去っていない。出て行ってくれ。もしくは、どうか少しでも早く覚醒してくれ。なぜ目が覚めない。もうたくさんだ。

 部屋の中に何かが焦げたような臭いが充満する。枯葉を集めて野焼きにした際の煙と似ていた。鼻につく。

 日の光が顔にぶつかる。早起きのニイニイゼミがまた存在を主張し始める。僕は恐々と目を開けた。黒い何かはいなくなっていた。壁の不審者たちももういない。指先がぴくりと動く。動くぞ。凝り固まる四肢を溶かすようにゆっくりと起き上がる。見回す。たしかにもう何もいない。どこまでが夢で僕はいつ起きたのか。ふいにドアが開き何かが雪崩なだれ込んで来るのでないかと感じ、しばらく布団から出る気にはなれなかった。ひどく喉が乾く。

 ちぃちぃという音に紛れぎぃぃぃと発す種の蝉まで鳴き始めた。外界から車のエンジン音も飛び込み、市井しせいの息遣いを感じられやっと僕はひと心地つくことができた。だがどうにも煙たさだけは部屋に漂い残る。意を決しタオルケットを跳ね除ける。大丈夫だ。足裏にフローリングの無機質さがある。夢ではあり得ない。ドアにもチェーンがかかってある。絶対的な安全の中に僕はいる。

 僕は蛇口から直接に水を含んだ。口中がねばねばと不快だった。全身が汗ばんでいた。寝巻きをぐように脱ぎ散らしシャワーを浴びた。心中にまとわりつく恐れは洗い流せなかった。

 クーラーのコンプレッションが低周波の絨毯を敷く。いつもの平穏な営みの音だ。だがどうにも煙たさだけは漂い残る。

 床に財布が打ち捨てられてあった。間違いなく僕のものだ。中のカード類がはみ出している。バックパックに入れ放してあるはずのものが床に落ちている。夢とは何も関係が無いはずだ、そうだろう? そんな荒唐無稽があり得るか? 鞄の中身を漁った際に溢れたのだろうさ。僕は財布を摘み上げる。カードがばらばらと散らばる。そこからひらりと飛び出した一枚が焦げていた。元は派手な色合いだったはずのものが茶色く変色していた。みつきさんの名刺だった。足下がぐらりと揺れた気がした。

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