学サー1-13

 ももかと名乗るみつきさんはまだ渚宅にいた。涼しげな色のシフォンブラウスに白い肌と髪とが映えるものだから部屋の中の空気が冷えて感じる。雪の精か何かに見えた。いつの間にかみつきさんと呼び近しく感じてはいるが、この時には人外か悪鬼か、全く得体の知れぬ女だった。

 身体中から噴き出る汗をボディシートでぬぐい取りながら、僕は精一杯の悪態を込めて言い放つ。

「先日はどうも」

 女は意に介さぬ。渚が「ネックレスのこと全部話しちゃった」と言う。危機感は無いのか。けれどこれは渚の問題だ。当人が良しとしたのなら僕に口を挟む権利は無いのでないか。

 よほどおかしな表情を見せていたか、「あ、タダじゃないんよ。代わりに、見てこれ、鞄もらっちゃって。話すだけだし」と高価そうな品を掲げ見せる。買収されてんじゃねえかよ。パパ活じゃないんだからさぁ。いや、渚のことだ。この女性の力になりたいと考えての結果なのだろう。どこまでも徳の高い人物だ。疑心にまみれた僕が小さく見えてくる。

「それは使いもせず余らせていた物ですから。合わなければ質にでも持っていってお金に換えてください。それよりネックレスのお話ですが、こちらの方もご存知なんですよね。ええと」

「あ、雅人くんです。新庄雅人くん」

「新庄さんですね。では、美咲さん、新庄さん。もしこのネックレスの持ち主が分かればまたメッセージをいただけませんか」

「持ち主?」

 思いもかけぬ言葉に素っ頓狂とんきょうな声が出た。謎のネックレスに持ち主? 考えても見なかった。だとすると、誰かがこのネックレスを買ってきて渚の部屋に投げ込んだということか? 話を信じるのなら、手品よろしく眼前で動かして見せ? しかしこんな人工物が自然発生するものでも無い。そうか。買い付けた何者かがいると考えるのが道理か。

「あの、ももかさんでしたっけ。なんで手土産持って来てまでこんな話を聞きたがるんでしょうか」

 僕の問いかけにみつきさん(ももかさん)は体ごと向き直り応じる。

「詳しくは申せませんが、そうですね、係争けいそう中の相手方に関わることかも知れないから、ですかね」

 突然この女性が憐れに思えた。こんな絶世の美女が何かに巻き込まれ、歳下におもねり、敬語でもって話しかけているのだ。警戒は解けない。けれど失礼にも憐憫れんびんの情が湧いた。

「こないだは蛇がどうのって言ってませんでしたっけ」

「さようです。美咲さんの巻き込まれたことも蛇に関することかも知れません」

 要領を得ない。

「巻き込まれたって言い方も普通に引っかかるんですけど。どういう意味ですか」

「そのままの意味です」

「無差別な何かの標的になったって聞こえるんですけど」

 みつきさん(ももかさん)はこれについての答えを示さなかった。

「では、蛇って何ですか。隠語ですか」

「隠語ではありませんが詳しくは明かせません」

「話せない癖に僕らには話せと言うんですか」

「申し訳ありません。お二方ふたかたを巻き込まないための配慮とお考えいただけませんか」

「巻き込むも何もあなたが巻き込まれたって言い方をしたんですよね。もう巻き込まれたみたいに言いましたよね。でしたらこちらも当事者じゃないんですか。事情も知らずに自衛はできませんよ。自衛のための情報を話してくれてやっとイーブンなんじゃないんですか」

 みつきさんは詰問きつもんには答えぬままただ頭を下げた。

「雅人くん」渚が割って入る。「好きなブランドの貰っちゃったし、責めるみたいな言い方やめて。私も話して大丈夫そうなことしか言ってないし」

 自身のことなのにかばうんだな。そうなると僕もこれ以上は口を開けなかった。みつきさんは渚に肩を叩かれやっと体を起こした。起き上がり小法師こぼしと言うんだっけ。上体がすっと起き上がるものだからどうも見惚れてしまう。見るからに夜の店の女といった出立にして所作が堂にる。馬鹿にしているのでない。この時のみつきさんの正座姿を思い起こすたび心にちくりと針が刺す。嗜虐心しぎゃくしんが芽生えるようでおののいてしまう。

「ところで美咲さんの、あちらのポーチの中。何か入ってますよね」

「え、化粧品?」

「化粧品だけじゃないですよね」

 ベッドの上に放り出された布袋ほていをみつきさんが指し示す。人差し指が反り気味に伸び、その先で尖る爪のラメが僕の目に焼きついた。

 正直に言おう。僕はつい先頃まで美咲渚を見やってドギマギとしていた。菊池さんに命令されてサークルへ勧誘しただって? 自分に誘う度胸が無かっただけだ。先輩から言われたのだから仕方無く誘ったのだという大義名分が無ければ動けなかった意気地いくじ無しだ。好きだったとまでは言わない。そこまでじゃない。けれど好ましく思っていたのだ。男子諸氏ならこのニュアンスを解ってくれよう。渚の距離感の近さと気風きっぷの良さとには大人になったばかりの僕らを狂わす魔性があった。男みたいな格好をしてさぁ。下がカーゴパンツで上がTシャツでってさぁ。そんでキャップを被っていてつばの下から覗く垂れ目があってさぁ。話す時はちゃんと目線くれるの。解るだろ? それが今ではみつきさんから視線が外れない。圧倒的な女性性だ。爪なんか魔女みたくとんがっている。ノースリーブの上衣から伸びる上腕は白く目映まばゆい。銀髪だなんてアヴァンギャルドな髪色をしているのに動作ひとつひとつに品がある。吊り上がる瞳に色んな光が灯るものだからいつまでだって放されない。そのうちにこちらの頬が赤く染まる。そんな瞳が今はベッドの上の袋に向けられる。

「その中、何か入ってますね」

「あ、もしかしてこれ?」

 渚が後藤先生からのお守りを取り出してくる。人の形にくり抜かれたそれには呪術的な意匠が施してあり、何となく不良のタトゥーのように見える。

「これ、雅人くんからもらった、お守りって」

「新庄さんがこれを? ご自身で作られたのですか」

「や、僕も貰い物ですけど。てかこんなのただの紙切れでしょう。何か関係があるんですか。知ってますよこれ。レポート書く時に似たの見ましたもん。形代かたしろて言うお守りなんでしょう」

 みつきさんは何でこの存在に気づけたのか。けれど関係無いに決まっている。これを渡したのはネックレスに悩まされる後だぞ。時期的におかしいのだ。

「これが形代? お守り? 違いますよ。これは通路なんです」

「通路?」

「ももかさん、これ何なんですか。通路てなんですか。でも私もちょっと調べてみたんですよ。四国の方のおまじないじゃないかって、思ってたんだけど」

「本当に形代ならその通りなのですけどね」

 みつきさんがキャミソールの首元を摘んで放す。湿気に居心地が悪くなった故の動作だろうが僕は思わず目を逸らしてしまった。

「美咲さん、これが本当に形代なのでしたら、五芒星ごぼうせい、お星様が描いてあるはずなのです。お守りでしたらその方のお名前ですね。……お借りします。ほら、こちらにはそれが無い。代わりにさまざまな記号がありますね。ひとつひとつ調べねば申せませんが、少なくともこの部分……平凡の凡の字のようなこれです……これは持ち主と何らかとを繋ぐ道を規定する図です。私の経験上、これが福を招くものであった試しがありません。新庄さん、これはどちらから?」

 みつきさんが僕に向き直る。眼光は鋭く僕はちらと見やるだけでうまく瞳を捉えられなかった。先ほど僕は何を考えた? この人に憐れみを感じただって? 今の下河辺みつきの雰囲気には風格がある。何か目的のため若造に叩頭こうとうするのだ。この凄みを隠しておけるだけ恐れ入る。この人はカルト狂信者でもネズミ講の勧誘員でも無い。僕は不思議と思い直していた。

「学校の、大学の先生から貰ったんです」

「先生から?」

「あ、渚、あの」ガキの小さな抵抗だよな。何となくバツの悪さを覚え誤魔化したく、僕は続けて渚に話を振った。「そういや上野のこと後藤先生に話したんだな」

「上野くん? 連絡とれんこと? 話さんよ。なんで?」

「新庄さん、その後藤先生とおっしゃる方からいただいたのですね? そして上野さんとは?」

 やっぱり見逃してはくれないんだな。今度は僕が裁かれているようだ。みつきさんと僕達とは歳もそう離れていないだろうに。大人としての度合いがあまりに違う。観念してしまった。僕はまたボディシートを取り出すと時間をかけて顔を拭った。

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