学サー1-9
あのあと渚も無事にやって来た。特段の会話はなかったが五コマ目の帰り際、きょろきょろと見回しながら近づいてきては「今度ご飯奢る」と。
「いいって」
「いいから。奢る」
僕は何もしていない。来いと言われたから行ったまでだ。しかしあまり固持するのも悪い気がしてそこで素直に頷いておいた。その日はエナジードリンクを続けて二本も飲んでしまい腹のうちがぐるぐると重たかった。結局レポートは放ったらかして、帰り着いてすぐベッドに倒れ込んだ。昨晩の悪夢のことがちらと頭の隅をよぎるも疲労感には勝てなかった。夢は見なかった。
上野健二は戻って来ない。上野の親御さんが自宅へ踏み込んだらしいが、やはり部屋にはいなかったようだ。大学の連絡掲示板に彼の呼び出しのビラが
ある日、僕は斉藤大翔とカフェに来ていた。新作のスムージーを飲んでみたいから付き合えと言われ、半額分奢らせることで手を打った。どうせこいつのことだから、先に人見奈々子を誘って断られ僕の元へ来たのだろう。僕も上野のことを喋りたかったし丁度良い。僕らが話したところで何の解決にもなりはしないが、それでも心の内のざわつきを払拭しておきたかったのだ。
けれど大翔は奈々子のことばかりを話す。以前は「人見さん彼氏いるんかな。や、別に狙ってんじゃないて」などと言っていたくせして今はもう隠すことすらしない。他にも女性はいるだろうに。奈々子は表裏がありそうで好きになれない。嗜好は人それぞれなのだろうな。
たしかに我がサークルにも女性はいるが、よく考えたら変な奴ばかりだ。たとえば酔うとすぐ胸を放り出す某先輩だ。黙ってさえいれば美人で言い寄る者も多いだろうに。しっかりと残念美人のレッテルを貼られてしまっている。形も大きさもご立派なものだから飲み会中の痴態が目に焼き付いてしまった。おかげでオタ飲みモンスは他サークルとの掛け持ちメンバーも多い。噂が広がっているのだ。本当に遠目で見やるだけならば美人だのに。あとはいかにもの才女といった院生の先輩もだ。同じ人文学部生だからお見かけすることはよくあったけれど、第一印象だけならば深窓のご令嬢といった麗しさだった。しかしどうだ。酒は人を変えるとも聞く。酒はその人の本性を暴き出すとも聞く。酒臭い息を吐きながら、オカルトがどうの、異学がどうのと喚く姿に幻滅した者は多かろう。
諸先輩方は立派な反面教師だ。彼女らのことは次の機会にでも話したいと思う。そうか。そう考えれば人見奈々子はまだ真人間だ。大翔よ。恋が成就すれば良いけれどな。
「人見さんなぁ、最近上野とか前原先輩とかお気に入りでさぁ。いつも話すとき距離近いじゃん。みんな勘違いすんだよな」
お前のそれも勘違いなんじゃなかろうかとは言えない。別に奈々子が誰と親しかろうが良いでないか。自分が構われないからと僻んでいるようにしか聞こえぬ。これも口には出さないけれどさ。
「今日食堂で人見さん見かけたけど、今日はでっかいシュシュつけてたよ。ピンクの。やっぱ目立つよなぁ。前原先輩と飯食ってたぽい」
「上野のこと話してたんじゃ」
なんとなく機先を制すべく口に出す。
「だとしても俺にも声かけてくれたってさぁ」
大翔はプラカップの水滴を手で拭いとる。ぐっぐっと握りしめるようにして掌の水気を乾かそうとする。おとなしく紙ナプキンを使えば良いのに。こいつの細かい行動が少しずつ相容れない。なんで馬が合うのだっけか。
口中に残る果物の繊維質を噛み切るようにして飲み下し、僕もまた口を開く。
「上野、どうしたんかな。大翔お前、心配じゃないの」
大翔がインナーで手を拭いながら口に出す。
「俺あんま心配してないんよな」
「は?」
予想外の答えに不恰好な言葉が転がり出た。
「あいつなら大丈夫だって。だって上野だぜ。あいつなら心配いらんて」
「だからその根拠ていうか。なぁ、おい」
「あのさ、だって上野だぜ。あいつしっかり者じゃん。それに俺らもう成人なんよ。周りが騒ぎ立ててコトを大きくしたってしゃーないじゃん。事件に巻き込まれてんならなおさら俺らが出る幕じゃない。そうじゃないなら黙って待つ。どうにもできないことで右往左往してても余計にこじらせるだけだろ、な」
机の下でひっそりと握った拳はおさめざるを得なかった。たしかに大翔の言うとおりだ。大翔は続けて不穏な言葉を口にする。
「これが単なる家出じゃないんならさぁ、俺らも危ないんじゃねえの」
「え」
「前原先輩とか、菊池さんとかさぁ。俺らとか?」
「それはさすがに、不謹慎だろ。意味分からんし」
「上野のこと好き勝手言うのも同じだろ」
ぐうの音も出ない。
「雅人お前さぁ」
「なんだ」
「雅人お前」
大翔はそこまで言って不自然に言葉を切った。ストローに口をつける。待てども一向に何も発さないから僕も真似て飲み下す。口の中が嫌に甘酸っぱかった。これなら大翔のバイト先にでも行ってコーヒーを飲んでいた方が良かった。普段あまりジュースだなんて飲まないのに僕は何をやっているのだろう。同い年くらいの店員たちがミディアムだラージだと商品のサイズを復唱確認する声音の飛び交う中で、僕らは数分間無言のままいた。大翔は空のカップの結露を執拗に
しばらくしてやっと僕らに言葉が生まれる。大翔だ。
「すまん。言い過ぎるとこだった」
即座の返答はできなかった。そろそろ期末試験だろうしバイトを増やしてもいいよなぁなどと場違いに考えてしまっていた。無理矢理にでも別のことを考えねば先日の悪夢を思い出してしまう。夢の中の友人たちが僕を
「や、僕の方が幼稚だった。ごめん、言ってくれ」
大翔の方へ向き直れないままに僕は言う。
「あ、なんか、心配してるってポーズだけとって、踏み入ることしないズルい奴に見えたっていうか」
「そうか」
これも言い返せなかった。自覚は無い。しかし幼い心のうちを見透かされたようで僕はしばらく顔を上げられなかった。ラージだソイミルクだと飛び交う喧騒を背に、僕らは氷すら溶け出す頃になってようやくと店を後にした。
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