学サー1-8

 渚宅に着くまで一時間以上はかかったかもしれない。自宅の玄関扉を開けるのに足がすくみ、外が白んできたころようやくと一歩を踏み出せた。もちろん自室の前には誰もおらず、いつもと変わらぬ風景があるのみだった。

 呼び鈴を押すのが憚られ電話を鳴らすと、戸が勢いよく開かれ渚が飛びついてきた。ショートパンツ姿の無防備な様に少し目を奪われ、しかし泣いてでもいたか、腫れる瞼と潤む瞳とに僕は悔いた。もっと早く来てやれれば。渚が僕のシャツの裾を掴む。

「やっと来た」

「ごめん、遅くなった」

 電話口で聞いたより幾分かは落ち着いている。

「またネックレスか」

「恐かったんだから、ほんと」

 渚が僕の背を押し部屋へと招き入れる。特段何かおかしな様子は見受けられ無い。以前何人かで訪れた際と何ら変わるもので無い。中央を占める卓の上には化粧品が散乱し、ベッドには大きめのぬいぐるみが鎮座する。コンセントには充電ケーブルが挿されたままあり、だらりと下がる様子に渚の生活感が窺える。

「またビーズアクセあって、その」

 まだシャツを掴むままの渚が背後から発する。

「ムカついて蹴飛ばしたら、そのままネックレスが動いて、こう」

「動いて?」

「動いたの。ネックレスが生き物みたいにぐねぐねって逃げたの」

 悪酔いの酒が見せる幻覚か何かだろうか。渚も酔って見間違えたのでないか。また胃液が出てしまいそうだった。

「で、ネックレスは、どこに」

「知らんて。分かんない、知らない。怖くて」

 渚が体を密着させる。腕に柔らかい感触が押しつけられる。普段なら小躍りするほど嬉しかったろう。そもそもが部屋着の同期の生足ノーブラ姿だ。僕だって参っていた。でなければ青い勘違いをしていたかもしれぬ。胸と思しき温かみは思考を少しだけ落ち着かせた。僕は縋る彼女を引き剥がすと肩を掴んで目を見やった。が、ドアスコープから覗いた不審な瞳が脳内に散らつき視線を外してしまった。

「大丈夫。もう外も明るいし、一限までは僕もいるから」

 格好がつかないなりにどうにか言い切った。そして自分が格好をつけようとした事実にもう少し気が楽になった。僕自身も一人で部屋にいるのが怖かっただなんて、しばらく秘しておこうと決めた。

 ベッドの下にも冷蔵庫の隙間にも不審な様子は見受けられない。家具裏の大捜索を終え、渚はやっと心地のついた表情を見せた。

「悪夢で飛び起きて、気づいたらまたネックレスあって。これ、写真撮ったの」

 たしかにおもちゃだ。小さな女の子の欲しがるような。ピンクと黄色の大粒のビーズがあしらわれたものであり、渚の私物とはとうてい思えない。

「で、これが?」

「蹴飛ばしたら、慌てたようにバタバタ動いてそのままぐねぐねしてテレビ台の方に」

「テレビのとこにもいなかったよな。動いた……蹴った勢いじゃ」

「違うて。動き変だったもん。生きてるみたいな」

 何にせよ渚が怖がっているのは事実だ。不審なネックレスが存ずるというのも本当なのだろう。そうだ。僕は財布に入れたままのお守りを取り出す。後藤先生にもらったものだ。それは人の形に切り取られた紙だった。表面には何やら複数の幾何学模様が描かれてある。どこかの土着信仰に由来するものだろうか。

「渚、これやる」

 僕はそれを渚の手に握らせる。好奇心がぐらりと揺れたものだから手放すのを少し惜しくも思ったが、お守りなら彼女が持っていた方が良かろう。

「何これ」

「お守りだって。後藤先生にもらった」

「後藤先生の……」

 いよいよ部屋の中が明るくなり、外からは生活音が飛び込んでくるようなってきていた。二人ともまだ寝巻きのままだ。渚が「もし雅人くんサボるならまだいてもいいよ。それなら私も今日は休もうか」などと言いやがるから自身を律するのに難儀した。

 帰路、このあたりにしては珍しく蛇がおり、あのネックレスも爬虫類のように動いたのだろうかと変な想像をしてしまった。コンビニでおにぎりとエナジードリンクとを買う。早くから活動したものですでに腹が空いていた。今日も五コマ目まで授業を詰めている。放課後にはバイトもある。風俗史のレポートにも取り掛からねばなるまい。こなさねばならぬタスクが多いものだから上手くそれを言い訳にできた。美咲渚のことなんてそこまで深く意識していたわけではあるまい。肌に残る柔肌の感触は罪悪感と表裏一体、僕は邪念を振り払うようにして朝の繁華街を駆けた。

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