学サー1-3

 数えて五代目の長に就任したばかりの菊池さんは本年度一回目の昼食会で早々にヘイトを買う。新入生の前で舞い上がったか、酒類禁止の昼食会だというに一人で酒をパカパカと開けやがり、女店員に粉をかけ、あげく盛大にゲロを撒き散らし轟沈した。汚物に塗れたジャージを剥がしまだ肌寒い風の荒ぶ裏通りに投げ捨てながら、メンバーの人見奈々子ひとみななこが「菊池さんナギちゃんのこと一目惚れってさ」などと言っていた。なんにせよ惚れた女の前で失態を晒したのだから馬鹿野郎だ。えてして我がサークルはこの店を出禁となったのだ。そういやこの人、この時立て替えたお金を払ってくれて無い。

「でさ、ちょっと最近気持ち悪いことあって」と渚が発す頃には、僕はコーヒーをすでに飲み干していた。渚の背後でみつきさんがちょうど伝票を手に立ち上がったから、僕は渚の話をあまりよく聞いていなかった。みつきさんの背はまるで天から吊られでもしているかのごとくしゃんと伸び、やはり僕をはじめ周囲の耳目じもくは集中した。後になって分かる。この仙姿玉質せんしぎょくしつたる美人にはいくつもの名がある。ももか。初め彼女はそう名乗った。差し出された名刺にそうあった。しかし飲み屋のカードであったしさすがにこれを本名とは思わなかった。微津。みつと読む。実の親からもらった名はこうなのだといつか聞いた。そして下河辺みつき。いまみつきさんはそう名乗る。彼女はこれまでの生において他にもたくさんの名を用いたろう。そのいくつかを知れただけ僕は幸運なのだと思うしかない。

「ちょっと、聞いてる?」

「うん、だからおもちゃのネックレスて話だろ」

「そう。怖くて」

「朝起きたらネックレス落ちてるて、言われても」

「自分ちの床によ。床。自分ちの。見慣れないのが」

「言われてもなぁ。しかも放置してたらいつの間にか消えてんだろ。疲れてんだって」

 渚が紙ナプキンをくしゃと丸める。目覚めたら見知らぬネックレスが落ちており、気づけば忽然と消え失せるのだと。本当ならばたしかに気味が悪い。けれど施錠に問題が無いとして侵入者とは考えづらい。渚も何か疲れているのだろう。こんなこと、気のせいでなければ何だというか。

 渚は他にも色々と訴えていたように思う。これがみつきさんとのファーストコンタクトであり僕らの巻き込まれた事件のおこりだった。そうと知っていればもう少し熱心に伺ったはずだ。これは怪異の仕業なのだという。みつきさんから教えられた。しかし世間知らずのこの時の僕は怪異だなんて全く知らない。渚もだ。当の渚だって人智を超えた存在に脅かされていただなんて考えもしなかったろう。僕に話すことで気を落ち着かせたかっただけだろう。この日はこれでお開きとなった。

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