九鍋目。温室の外
――ラーユが、攫われた。
肉屋でお世話になった、その次の日の朝だった。
妙な人影が横切った気がして起きてみたら、ラーユがいなくなっていた。モモも、見当たらない。
「……追いかけないと!」
頭の中が真っ白だ。
(気づかなかった。いつ部屋に入ってきたの?)
(鍵を閉めたはずなのに、なんで?)
(なんで?)
私はタンスに仕舞ってあった長剣を手に取った。
埃っぽい。そういえばラーユが家に来てから、剣を振っていない。
「ラーユ、待ってて」
とりあえず、物置小屋を出た。一通り見たが、何も荒らされていないようだ。本当に、ラーユだけが目的なのかもしれない。
――それならなおさら、必死に探さないと。
ドアの前で、立ち止まる私。
考えないと。誘拐犯がいったい、どの方向に進んだのか。
探してみたが、足跡が残っていない。掠った痕跡すら残していない。よほど、こういう仕事に慣れているらしい。
考えろ。
頭を動かさなきゃ。
動かさなきゃ――。
「あのぅ」
女性の声に、私が振り返った。
貴族のお世話係のような、身を整えたメイドだった。
「もしかして、誰かお探しですかぁ」
「はい。人さらいに会ってしまいまして」
「それなら今さっき見ましたぁ!黒いマントを被った人が、女の子を抱えて……」
「えっ⁉どの方面ですか!」
「ええっと、確か――」
――森の、ずっと奥。
私は一つ礼を言うと、メイドが指さした方向へと駆け出した。
ラーユ、モモ、今すぐ助けに行くから。
・・・
整頓された石畳の道。
並木に飾られた異質なランプ。
まるで私をおびき寄せるかのように、まだ見ぬ遠くへと続いている。
濃厚な霧が顔にかかる。妙に呼吸がしづらい。
私が歩を進めるたびに、むせるような息苦しさが増していった。
……そしてついに、道が途絶えた。
「……っ、あれは!」
見上げるほどの巨躯を持つ、古びた館。まるで一つの巨大な生き物――そう、ドラゴンを思わせるような造形だった。
朝方だというのに曇天は重々しく、三角屋根にのしかかっている。
窒息するほどのミストだけが、図々しく空気を占領していた。
――異界。
これほどのご近所に、こんな場所があったとは。
そういう場合ではないとわかっていつつも、私は息をのんだ。
「……いた!」
ふと、私の視界は人影を捉えた。
重厚な鉄柵のゲートの向こう側。私に背を向けているのは一つのマント姿。
その影は私の方へとやや顔を向けると、あざ笑うようにして屋敷の奥へと足を運んだ。
「待って!」
私は無意識のうちに声を張った。
――トン。
「……え」
肉体に衝撃が響くまで、私は認識することすらできなかった。
私の胸をまっすぐ貫く、一本の朽ちた長剣。先の曲がった長剣。
すぐさま引き抜かれた。
バランスを崩し、私は必死になって鉄柵を握った。
辛うじて振り返る。
黒いマントだ。手に握っているのは、私が持ってきたはずの長剣。
――視線誘導をして、背後に忍び込み、正中線を狙った鋭い刺突。
どれもありきたりだけれど、できる人など一握りだ。
「……あなたが、ラーユを攫ったのですか」
「……」
返事はない。
シロではなさそうだ。
「使いなさい」
「え」
懐から一本の剣を引っ張り出すと、ご親切にも私に手渡した。
え。なんで。
私を殺したいわけじゃないの。
「……立ちなさい」
言われた通りにするのはなんだか気が乗らないが、立ち上がるほかない。
剣を構え、相手と距離を取った。
……まあ、何にしろ。
「ラーユを返してもらうよ」
私は脇を引き締め、低姿勢になって薙ぎ払った。
「『ナビゲーターたるもの、常に冷静であるべき』」
「ぐっ」
すでに、相手は横にやってきていた。
何をされたかもわからないまま、私は膝から落ちた。
「『自分より格上に、背中を取られてはいけない』」
「『正中線に弱点が集まる』……これはゾンビでも同じこと」
私は額に手を触れた。
若干の隙間がある。……もしかして、さっきの一瞬で斬られたの?
「『戦闘中は怪我の状態を気にするより、まずは避難をすること』」
「『立ち止まる場所を判断すること』」
腹を抉るような一突き。
私はそのまま為すすべもなく、柵に叩きつけられた。
「『立ち回りに気を付けること』……以上、全部教科書にも載る内容。その一方実践できる人などほとんどいないのも事実」
「……いったい、一体なんなのですか!」
私は感情の訴えるままに言い放った。
おかしい。コントロールが聞かない。焦りと無力感だけが先走って、剣を握る手の感覚がなくなっている。
目の前の人が言っていることは、どれも正しい。
どれも認めざるを得ない事実だ。
……その分、私の精神へのダメージはとてつもなく重かった。
「一つだけ答えてください。あなたが、ラーユを攫ったのですか」
「……あの子、ラーユと言うのですね。着ぐるみ、可愛かったですね」
「……っ」
「そんなことより続きをしましょうか――アンズちゃん」
何事もなかったかのように。
まるでラーユを攫ったことなど当たり前かのように、彼女は剣を悠々と構えた。
おかしい。彼女が持っているのは私の手入れをしていない剣なのに、なぜこんなにも鋭い攻撃が繰り出せるのだろう。
――それに。
「……なぜ私の名前を知っているのですか。なぜそんなに、上から目線なのですか。……私が経験した苦しみも、嫌なことも、経験したことなんてないくせに!」
自分でもびっくりするくらいの大声が出た。私ってこんなに怒れるんだな、と感じた。
ううん、怒りだけじゃない。
苦いトラウマの反芻。
酸味の強い屈辱感。
甘くて中毒性のある思い出。
……そして、塩辛い現実。
見れば見るほど惨めで、考えれば考えるほど理不尽で。
そのまま聖魔法かなにかで消し去ってくれたら、どれほど楽かと思ってしまうほどに。
私はもう、前が見えていなかった。
「いいえ、あなたと同じ道を進んできたから、言っているのですよ。アンズちゃん」
「嘘つき」
剣を高く構え、体重を乗せて振り下ろす。
しかし力は簡単に流され、相手の肌に届きもしなかった。
反応が鈍く、カウンターに気付くこともなく私は地面に転がった。
起き上がる間もなく私の心臓は貫かれた。ゾンビとはいえ体には限界がある。すでに体の治りが遅くなってきている。
「ぐぅ……っ」
「ラーユちゃん、と言うのでしたっけ。あの子は確かに、あなたの支えになったのだと思います。――けれど、ラーユちゃんを温室にしてはいけません」
彼女の言葉は続いた。
「確かに、アンデッドが過ごしにくい世の中かもしれません。ですがそれは、あなたが頑張るのをやめる理由には、なりませんよ」
「……っ」
妙に温かみのある言葉なだけに、実物の剣よりも何倍も殺傷力があった。脳がぐつぐつと加熱されているようで、少し気が緩めば感情が決壊してしまいそうだ。
せめてもの反抗に、私は声を震わせて言った。
「……頑張っています。あなたが見えていないところで、ずっと――」
「嘘はよくありませんよ、アンズちゃん」
「……っ」
「人員募集の紙飛行機。最近、飛ばしていませんね。もう、メンバーは足りたのでしょうか?それに、剣の鍛錬もそう。ナビゲーターのお勉強もそう。……ラーユちゃんが来て、安堵したのは理解ができます。けれど、一気に安心してしまって、もう苦しみを味わう勇気を封印してしまったのでしょうね」
自分のことだ。
判っていないわけがない。
むしろ私の方がずっとずっと、ラーユに甘えていたことくらい。
もう部屋に閉じこもって、ずっといい世界だけを見ていたくなったことくらい。
ただ、それをいざ突っつかれると怒涛のように恥ずかしさが沸きあがってきて、堰き止められなくなっていくのだ。
「アンズちゃん。よく、覚えておいていなさい。習慣を作ることはとても時間がかかります。ですが――その習慣を壊すのは、一瞬だけでいいのですよ」
「そ、そんなこと……」
だめ。
やめて。
もう、いわないで。
「……あなたの行動が見たくて、ラーユちゃんという温室を取り除いてみましたが、案の定でしたね」
「あ、ぁ、ぁぁ……」
我慢できない。
頭の中がまるで感情の闇鍋のようになって、混ざり合って、沸騰していた。
ゾンビだから、ゾンビだから、ゾンビだから。
そうやって決めつけていたのは、自分かもしれない。
タフになろうとすればするほど、心の奥底が脆くなって。
ちょっと炙られただけで、すぐにボロボロに崩れてしまう。
――私、ばかみたい。
その後は記憶すら残っていなかった。
ただ、きっとずっと地面にへばりついたまま、赤ちゃんみたいに泣きじゃくっていたのだと思う。
世界で一番、醜い顔をしていたのかもしれない。
ああ、もう。
――さっさと生まれ変われたらいいのに。
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