第1章  ピアニスト

「じゃ、今日はここまでにしよう。お疲れ様。」


とある音楽教室。楽譜をクリアファイルに差し入れ、響はピアノに向かう少女に言った。


「先生、もう少しだけお願いできませんか?このままじゃ、学園祭に間に合わない…。学園祭までには、完璧に弾けるようになりたいんです!」


少女は自分の今日の出来に納得していないのか、ピアノの前を離れようとしない。

そんな彼女に、響は諭すように言う。


「ピアノは自然体で弾くのが一番いい。焦りやいら立ちは、そのまま音になって出てくる。お前は今日はここまでで集中して弾けた。いい状態で終わるのも、一流のコントロールの仕方だ。」


と言うと、赤ペンで楽譜に2か所だけマークをする。


「ここと、ここ。指の運びに気を付ける。この2か所だけ、癖が強く出てる。次の鍵盤に指が届かなくなるのは、ここが原因だ。」


少女は、しぶしぶ楽譜を受け取り、


「ありがとうございました・・・」


と立ち上がる。


「先生は、どうして最近、コンクールに出ないんですか?天才といわれて、音楽界の希望と言われて・・・未来は安心じゃないですか。どうしてこんな無名の音楽教室にいるんです?」


不満げな質問。少女はもともと気が強く、疑問はいつだってすぐに投げかけてくるタイプ。それを知ってか、響も下手に言い訳せず率直に自分の意見を答える。

少しだけ言葉を選び、響は言う。


「音楽がどうという理由じゃない。俺の未来に、ピアノが必要なくなったからだ。」


少しの間。

みるみる少女の表情が険しくなっていった。


「・・・わかんない。天才の理由なんて、凡人にはわからない。わかりたくもない!!」


少女は、手早く荷物をまとめると、飛び出すように出て行った。


響はそんな後ろ姿を見送ると、ふぅっ……と息を吐き、ピアノの前に座る。

楽譜も開かずに、ピアノの前に座り……


「独りで弾いたって、虚しいだけだ。」


そう呟くと、ゆっくりと鍵盤に指を運び、静かに曲を奏でた。


自分の思うままに、指を運ぶこの曲は、SAKURAのために書いた、新しい曲。



その曲には、やさしさ、そしてあたたかさが溢れていた。


ゆっくりと、1音1音、確かめるように、確実に鍵盤を弾いていく響。

ピアノ室の中は、もはや響だけの『空間』となっていた。


そんな空間の外側。


ピアノ室の温かさとは正反対の、冷たい屋外。

音楽教室の冷たい外壁に背をもたれ、少女が頭上のから流れる音を聴いていた。


「なにが未来にピアノが必要ない、よ・・・。こんなに素敵な曲が書けて、弾けるのに・・・!!」


少女はこぼれそうになる涙をぐっとこらえ、壁をとんっ・・・と軽く叩いた。

決して、響のことが嫌いなわけではない。

彼の音色は、いつだって彼女の心の氷を溶かし、ピアノに対する憧れを強く感じさせてくれた。



だからこそ、少女は憤るのだ。



こんなにあたたかな音色を、何故封印するのか、と……。


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