2
海氷の上を踏み歩いて一時間程が経過した頃、不意に隊長が口を開いた。
「お前は、鳥の話を聞いたことがあるか」
鳥、と急に言われて僕は脳内にクエスチョンマークが浮かび上がったが、少し思考を回した後に凡そ何のことだか見当がついた。
「海を作った、鳥の乙女の話ですか」
「正解だ」
鳥の乙女、と聞いて明らかに隊長の声色が変わるのが分かった。うっとりとした、彼が自身の事を愛でるときと同じ声色である。
鳥の乙女──彼女はこの海を作り上げた、海の母と言われる存在である。僕らの国に伝わる昔話のようなもので、彼女が海の底へと赴くことで海に栓をし、彼女の涙が海水となって海ができた。
それ以上の事は、僕は知らない。
「お前はその話を聞いて、何か思う事はないのか」
僕が知る昔話をそこまで語り終えた後に、囁くような声で彼は問いかけてくる。恐らく、後ろの監視に聞かれたくないから声を落としたのだろう。
「思う事、ですか」
これまで一度も振り返らなかった隊長が、漸く自ら僕の方を見た。
この海氷の用に真っ白な、穢れ一つとして存在しない硝子細工のような瞳。それがこの世界にとって取るに足らない存在でしかない僕を映しこんでおり、それが心の隅からじわりと焼かれるような心地がして思わず視線を逸らした。
獲物を定めるように、彼の瞳孔が収縮するのが見えていた。
「お前は思う事がある時に、そうして自分の手を組む」
視線を落とした先、確かにそこには僕が無意識に組んでいた手があった。
「俺は、お前が何を言おうと笑わん」
顔を上げると、それだけ言った後に再び彼は前を見てしまった。
彼──イヴォルは、確かに僕の発言を一度だって馬鹿にした事がない。他の上官に怒鳴られ、嘲笑された発言であっても、彼はただ淡々と聞く。それに答えや評価が必要ならばそれらの基準に準えて自身の見解を口にするだけ、その必要がなければ傾聴するのみだった。
「……鳥の乙女が泣いて、海が出来たんですよね」
「そうだな」
「彼女は、何故泣いていたのかと思う事はありました。僕が幼い頃に」
この、莫大な広さの空間を満たしてしまう程の塩辛い水が全て彼女の涙だと言うのならば、何故彼女は泣いていたのか。
幼い頃に、海水を舐めながらそんな事を考えた事があった。これも例に漏れず、身近な大人に話したら馬鹿にされて終わったのだが。
「ほぉ」
──しかし、どうだろう。今僕の前を行く彼は、たった一つ関心するような声を漏らしただけである。
その後はしんと黙り込んで、何かを考え始めた。僕はどうにも、自分の発言の後に沈黙が生じる事が耐え難いらしく、慌てて繕うように言葉を繋げた。
「それなら魚は何処から来たのでしょうね、元が涙なら彼女の目から生まれたのでしょうか」
我ながら、随分と馬鹿げた質問だったと思う。
「魚は死骸だ」
自らの過ちの反省に入ろうとした直前、ふと頭上から声が降ってきた。
「死骸」
「ああ、だから俺は食わん」
吐き捨てるようなその言い方は、恐らく僕の発言へではなく、「魚」という言葉に対してである。確かに彼が魚を口にしていたことは、僕の知る限りでは一度もない。悠々と水中を泳ぐ生物が死骸とはこれ如何に、と思うが、それを今聞くのはどうにも憚られる。
ちらと背後を見れば、先程よりも幾分か近くなった監視達の姿がある。僕らがペースを落として会話していたのもあって、彼らとの距離が縮んでいたのだろう。
「俺の言う事を、お前は笑わんだろう」
これまで通り、隊長は振り返りもせずにそんな事を言った。
「俺が魚を死骸と呼ぶのを、孤児院の連中は皆笑ったよ。生きているのに、死んでいるわけが無いと」
──でも、確かにあれは死んでいる。
最後のその言葉は、注意して聞かねば風に攫われて消えてしまう程にか細い声だった。
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