無名

第10話

大学が休暇に入ると、時雨は組の仕事で長期間留守にしていた。




それ自体は喜ばしいことではあるが、大学以外では外に出ることは許されていないためそれが無くなれば、必然的に一人で家に引きこもるような毎日になるわけで。




始めの頃は、部屋の中だけとはいえ睡眠も妨害されることなく自由を満喫していたが、それが何週間も続くとさすがに苦痛になっていった。




休暇といえばバイト漬けの日々を送るのが当たり前だったのに、時雨に支配されている今の方がそういった面では快適だというのは如何なものか。












「ねえ、無名は時雨のことをどう思ってるの?」






〝部屋から一歩も出るな〟と拷問でしかない命令をされた私は、問題ないだろうと勝手に解釈して隣の無名の部屋に入り浸っていた。



護衛兼補佐の無名だが、時雨が出かけた1週間後には戻ってきた。




理由を聞いても教えてもらえなかったが、それ自体にはさほど興味はないので追求はしなかった。











「どう、とは?」



「無名なんて名前を付けられたり、ものみたいな扱いをされたりしているのに、不満とかないの?」






24時間、常に時雨の命令に従えるようにと待機している無名。



この広々とした部屋には布団や折り畳み式のテーブルくらいしかなくて、生活感の欠片も無い。



私物らしきものは一つも見当たらないし、本当にここで生活しているのかと疑うほどだ。



例え会話がなくても誰かと一緒にいたくて、部屋の隅で膝を抱えて無名の行動を観察していたが、いつも仕事をしていて休んでるような素振りもなかった。



無名とは他人かそれ以下くらいの関係ではあるが、ここまで酷いとさすが心配になって口を出したくもなる。









「〝モノ〟である私にどう思うもありませんよ。モノはモノらしく、所有主に従うだけです」






当然のように答えた無名に溜息を吐く。



無名がこういう人だって忘れてたわ‥‥。










「私には、意思も感情も人格さえ存在しません。生まれてきてからずっとそうして生きてきました」




無名が人として欠落しているのは、この僅かな期間で察した。




前に、どうしていつも笑っているのかと聞いたことがある。




当時は時雨に弄ばれている無様な私を嘲笑っているのかと怒りに任せて尋ねたが、返ってきたのは予想していたものとはかけ離れていた。



かつての主人から〝笑え〟と命令されたそうだ。



幼すぎて何が善で悪かも分からない時期に、暴力と共に浴びせられた言葉。




それが生まれて初めて教えられたことで、それ以外に何をしたらいいかも分からずに、ただひたすらに笑顔を貼り付けていたのだという。




その話を聞いた時は、恐ろしくて仕方がなかった。




表情一つ変えずに、今もなお貼り付いたままの笑顔でそう語る無名が気持ち悪くて、顔を見ただけで嫌悪感を抱くこともあったくらいだ。




でもそれは、決して無名が悪いわけではない。




無名がそうなってしまった原因は生きてきた環境のせいだ。



私も、同じだから分かる。




それは、努力したところでどうにか出来る問題ではないのだ。



〝異常〟なことを〝正常〟だと勘違いして成長してしまうと周囲の常識に合わせることは容易ではない。

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