第4話

無名むめい





名前を呼んだのと同じタイミングで、向かいの襖が開く。








「お呼びですか、若」





いつものように笑顔を顔に貼り付けた男が、丁寧にお辞儀をする。




能面のように表情が1ミリも変化しないこの男の名前は無名。



名前がないのが名前という、悪趣味な名を付けたのは時雨らしい。



時雨の補佐兼護衛をしている無名は、唯一時雨が信用している組員らしく、この屋敷の護衛は彼にだけに任せてある。



襖一つを挟んだ向かいの部屋に常に待機しているから、色々と筒抜けだろうと始めの頃は羞恥心や申し訳なさもあったが、いつの間にかどうでもよくなっていた。



今のように、急に時雨が呼んだせいで裸を見られたって何とも思わない。



だってこの男には、文字通り感情というものがないのだから。



気にするだけ無駄だし、気にしたところで自意識過剰みたいで嫌だ。











「こいつを大学まで連れて行け」





頭を下げると、手を伸ばして抱きかかえられる。



手早く服を着させてくれる無名の相変わらずの体の細さに、何とも言えない気持ちになった。



無名は、私ですら心配になるくらいに痩せている。









「‥‥重くない?」



「小夜さんは軽すぎるくらいですよ」






部屋から車までの距離すらも歩くだけの体力が残っておらず、恥ずかしくも無名に運んでもらった。



毎朝必ず母屋に顔を出さなくてはならないらしい時雨よりも先に、無名と大学に向かうのが日課だ。








「怒ってますか?」



「無名に怒っても仕方のないことでしょ」







無名は時雨には絶対に逆らわない。




逃げた私を捕まえて時雨の元に連れて行ったのは紛れもなく無名だが、だからといって責めるわけにもいかない。



無名の境遇も知らずに、被害妄想から辛く当たってしまったことがあるから負い目があるんだ。









「監視をわざと手薄にしたのは偶然ではなく、若の命令だったんです」


「‥‥え?」






確かに、あの日の監視はやけに手薄だとは思ったが、まさかわざとだったとは‥‥。



別れ際に『今度は通用しねぇからな』と言われた意味が分からなかったけど、あれは要するに逃亡を企てる時に、順応なふりをして警戒を薄めようとしたことに気付いたんだ。



私の計画など時雨には筒抜けだったに違いない。



わざと泳がせて、動きを見せた瞬間に捕らえた。



‥‥本当にタチが悪い。






傲慢不遜



冷酷無情



傍若無人



唯我独尊






アイツにとっての世界は、全て自分中心で出来ている。

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