第9話 イチゴ飴


 リンには努力すると言ったものの、剣術の練習をする気にはなれなかった。

 それよりも僕には切実な問題がある。

 虎景山からふもとへ行く方法を見つけたいのだ。

 もしもリンに呼び出されなければ、僕はずっとここにいることになってしまう。

 秘密の登山道でもあるかと探したけど、そんなものは見つからなかった。

 やはりここは外界から隔絶された場所のようだ。

 長いロープでもあれば降りられるだろうか?

 ロッククライミングの教本でもないかと書庫を漁ったら、もっといい本を見つけることができた。

『飛空術』である。

 これは表題のとおり神力を利用して空を飛ぶ術についての書物だ。

 この術を身につければ、リンに呼び出されなくても虎景山を降りることが可能になるだろう。

 僕は居間の椅子に座り、寝食を忘れて『飛空術』の本を読み耽った。

 気がつくと東の空が白んでいた。

 だけど眠気はまったくない。

 これも神さまチートのひとつなのだろう。

 よし、これまで読んで学んだことを実践してみよう。

 だけど、いきなり断崖を飛び降りるのは危険だな。

 まずは台座の上から飛び降りてみるか。

 これなら50センチメートルほどしかないから、落ちても痛くはないだろう。

 僕は台座の上によじ登った。

 まずは全身の神力をあつめて風を起こすところからだ。

 そして、神力をまとったまま自分が起こした風に乗れば……。

 おお!

 ぷかぷかと宙に浮きながらゆっくりと降りていくぞ。

 上昇はまだ難しいけど、下降はなんとなくコツがつかめた気がする。

 だけど、崖から飛び降りるのはまだ早い。

 それはもう少し練習してからだ。

 僕は慎重な性格である。

 こんどは桃の樹から飛び降りるところからやってみよう。

 飛空術で太い枝に飛び乗り、そこから術を駆使した状態で地面に向かってゆっくりと降りた。

 よし、ふんわりと綿のように地面に降りられたぞ。

 足に伝わる衝撃はほとんどない。

 念には念を入れて、屋根から飛び降りる練習をしてから本番に臨んだ。

 僕は虎渓山の崖の上から眼下を臨んでいる。

 500メートル下にはグロウ地方の畑や集落が広がっている。

 大丈夫、バンジージャンプをするわけじゃないさ、飛空術でのんびり降りていくだけだ。

 恐怖を抑え込むために僕は自分に言い聞かせた。


「よし、いくぞ!」


 気合を入れて僕は花びらが舞う空へ浮かび上がった。


「うわあ……」


 大空で使う飛空術には、なんともいえない解放感があった。

 まるで重力のくびきから解き放たれたような快感である。

 空を飛ぶというよりは漂っている感じだけど、落下速度はゆっくりだ。

 これなら地上に激突することはないだろう。


「とと……」

 

 だが、山際には不規則な風が吹いていた。

 これを見極めるのが非常に難しい。

 僕は左に流され、右に流されしながら少しずつ軌道を修正し、一番近くの集落を目指した。

 ところが、これがなかなかうまくいかない。

 そして迫ってきたのはその集落の水田である。

 水を張ったばかりの田んぼには輝くような青空が映っている。

 きれいだなあ……。

 でも、このままだとあの田んぼに着水だぞ。

 なんとか上昇しようとするのだが、すでに僕の神力は尽きかけているようだ。

 激突はないと思うけど、泥だらけになることは覚悟しなければならなかった。


「この地を守る神よ、我が声に従い降臨せよ。急急如律令!」


 遠くの方でリンの声が聞こえたと思ったら、僕はもう違うところにいた。


 リンが僕を見てニマニマ笑っている。

 ひょっとして田んぼに墜落しそうなところを見られていた?

 動揺を顔に出さないように僕は聞いた。


「何か用……?」

「じつは依頼者にイチゴ飴をもらったの。せっかくだからライキにも分けてあげようと思って呼んだんだよ」


 リンは串にささったツヤツヤのイチゴ飴を僕に差し出してきた。

 長い串にはイチゴが六個も刺さっていて、とても美味しそうだ。

 これ、病院のテレビで観たのと同じやつだ。

 あのときは食べ歩きをしている同年代の子を羨ましく思ったっけ……。


「ありがとう」

「これくらいいいの。先日は湿布を作ってもらったし、たまにはこういうこともね」


 リンの輝くような背中を思い出して恥ずかしくなってしまった。


「遠慮なくいただくよ。ずっとこれに憧れていたんだ」


 初めて食べるイチゴ飴は外側がパリパリで、中がジューシーでとても美味しかった。

 前世だと、こんなものは食べられなかったからなあ……。


「気に入った?」

「うん、とても美味しいよ」

「だったらこれも食べて」


 リンが食べかけのイチゴ飴を僕に差し出してきた。

 串にはまだ三個のイチゴ飴が残っている。


「え……? でも」


 これって間接キスにならない? 


「ぼ、僕らはまだそれほど深く知り合ったわけじゃないし、こういうことは……。いや、もう感染症とかは気にする必要はないんだけど、僕なんかが食べて君に対して失礼にならないかどうか……」

「なにを言ってるのかぜんぜんわからないよ」


 リンは無理やり自分の串を僕に握らせた。


「それよりもさっさと服を脱ぎなさい」

「な、なんでだよ? 僕の裸が見たいの?」

「ばか、服が破れたままだからよ」


 ああ、山賊に刺されたときにできた穴か。

 めんどうだから放っておいたんだよね。


「どうせ縫物なんてできないんでしょう? 私がやってあげるから貸しなさい」


 意外だったけどありがたい申し出だった。


「すごく助かるよ。まだ裁縫の本は読んでいないんだ」

「本来はこっちが使役する側なんだから、感謝してよね」

「うん……」


 慣れた手つきで僕の服を繕うリンを、イチゴ飴を食べながら眺めた。

 リンはこういうのを気にしないのだろうか?

 こういうのって言うのは、つまりその、間接キスだ。

 この世界では案外普通のことで、食べきれないぶんは他人にあげたりするのだろうか?


「ねえ、リン」

「なあに?」


 リンは縫物から目を離さない。


「…………」


 君は気にならないの、って聞きたかったけど声が出なかった。

 僕が黙っていると、リンはようやく顔を上げてこちらを見る。


「もしかして、お腹いっぱいになっちゃった?」


 僕が持っている串には、まだひとつイチゴ飴が残っていた。

 リンは僕の服を両手に抱えたまま飴に口をよせて……。

 そのままぱくりと食べてしまった。


「ちょっと甘すぎよね」


 平然とそれだけ言って、リンは縫物を続ける。


「そうかもしれない。かなり……甘すぎる……」


 そして僕は、モヤモヤとした気持ちと、ベトベトになった手をもてあます。


「はい、できたよ。あら、服を着る前に手を洗わないとダメね」


 近くの小川で手を流して、繕いあがった服を着た。


「うん、我ながらいいできね」

「ありがとう」

「よ、用はこれだけだから。元居た場所に送り返すね」

「そっか……」

「それじゃあまた……」


 気がつけば僕は田んぼのすぐ上にいた。

 元居た場所ってここのこと?

 ああ、風景がスローモーションで動いていく。

 リンはどうして食べかけのイチゴ飴を……?

 僕はリンのことが好きなのかな?

 それともちょっとめずらしい経験をして、心がざわついただけ?

 口の中は甘いけど、どうして胸がこんなに苦しいんだ?

 もう、わけがわからない!

 混乱した僕は頭から水田に突っ込んでしまった。

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