第6話 八王子 純太犬になる⁈

「何だよ……ジュルッ、また俺を馬鹿にしに来たのかよ……ジュルッ」


 保健室の隅で膝を抱え、鼻水をすすりながら、俺は声を絞り出した。

 目の前には、黒いロングヘアと冷たい眼差しが特徴の北条美月姫。無駄にスタイルが良くて、制服の着こなしもどこか完璧すぎて近寄りがたい、完全無欠のクールビューティー。

 そんな彼女が、保健室に突如現れてから、俺の脳内は警報鳴りっぱなしだった。


 どうせコイツのことだ、俺の傷口に塩を擦り込む気だろう。

 しかもミネラルたっぷりの岩塩でだ。


 俺の心はすでにグロッキー状態。感情のライフゲージは空っぽなのに、このドSお嬢様は容赦がない。


「それも面白そうだけれど、今日はあなたに――提案を持って来たのよ」


 いつもと変わらぬ口調で、美月姫は言った。涼しい顔で、俺のパーソナルスペースに土足で足を踏み入れてきやがった。


「……こんな惨めな俺に、何の御用でしょうかねぇ? お嬢様……」


 自暴自棄な投げやりな口ぶりだったが、彼女は眉をひそめた程度で怒る様子はなかった。けれど、その仕草一つで、少しだけ気圧されてしまう俺がいた。やっぱ、コイツ怖ぇわ。


「まあ、いいわ。この話を聞けば、きっとあなたの態度も少しはマシになるでしょうし」


「今の俺には、立ち上がる気力もないんだよ……心にぽっかり穴が空いちまったんだ……放っといてくれよ……」


 ため息をつきながら目を伏せると、保健室の天井がやけに真っ白で、今の俺にはまぶしすぎるように感じた。


 ……………………………………


「――あなたを、舞踏王様(プロムキング)にしてあげると言ったら?」


「…………は?」


 一瞬、何かの聞き間違いかと思った。

 けれど、美月姫は真顔だった。その眼差しは、冗談なんて一切通じない、あの冷たくも鋭い本気のやつだった。


「……フッ、面白ぇ……入学早々、カモられて終わった俺が、プロムキングだぁ? そんな方法があるんなら、ぜひとも教えてもらいてぇもんだな」


 俺は、ベッドで寝返りを打ちながら、彼女を煽るように笑った。

 どうせ嘘だ。俺を弄んで楽しむつもりだろ。そう思ってた。


「この話に乗るなら教えてあげる。乗らなければ……まあ、あとは、負け犬のまま、惨めな高校生活を送ればいいわ」


「乗ったらどうなんだよ?」


「勝ち犬になるわ。土佐犬くらいにはね」


「どっちにしろ犬じゃねぇか! ……つーか、なんで俺なんだよ!」


 思わず叫んだ。俺なんかに、なんで声をかける?


「あなたは、犬にしゃぶり尽くされた骨。つまり、誰にも食べられず放置された、ただの残飯ってことよ。そんな誰にも注目されない“残飯”だからこそ、水面下で行動するには最適なの」


「俺は、今度は残飯かよ……!」


 文句を言いつつも、“水面下”って響きがちょっとカッコいいかもって思ってしまった自分が腹立たしい。単純すぎるだろ俺。


「それで、どうするの? 時間は有限よ、残飯くん」


「あーもう、わかったよ! 乗ってやるよ! お前の“勝ち犬”になってやる!」


「フフ……いい返事ね」


 美月姫は保健室の机に腰かけ、足を組み直す。その仕草一つとっても、やっぱり様になっていて、ムカつくほどサマになっていた。

 まるで――悪魔との契約だった。この学園には、何人悪魔がいるんだよ……ったくよ……


「私とあなたで“一億”を取るの。成功報酬は6:4。私が六千万、あなたが四千万。プラスで、業界へのコネもつけてあげるわ」


「お前の方が多く取んのかよ!」


「当然でしょ? 手を貸してあげるんだから。7:3じゃないだけ、ありがたく思いなさい」


「はいはい……分かったよ。そんな怒んなって! お前、カルシウム足りてねーんじゃねーの?」


「ん゛? 今、何か言ったかしら?」


「な、なんでもないっす……それで、俺は何すりゃいいんだ?」


 美月姫は無言でラヴウォッチを二回、コンコンと軽く叩いた。


「ん? 何だそれ?」


「……呆れた。説明書を読まないタイプね」


「読むかよ、あんな長ったらしいもん」


「話を遮らないでくれる?」


「はいはい、どうぞ~お嬢様ぁ~」


 明らかにムカついてたけど、北条は冷静さを保って説明を続けた。


「このラヴウォッチには、最新のスマートウォッチ機能はもちろん、脳内通話までできるの。それを使って私があなたを操り、ラヴポイントを稼がせる」


「まずは、手始めに……向日葵って子に復讐してあげる」


 ――その名前を聞いた瞬間、心の奥に燻っていた感情が弾けた。


「……マジかよ……お前、そんなこと出来んのか⁉︎」


 俺は思わず前のめりに迫ってしまった。


「ちょっと離れて。臭いわ」


「どーせ胃が腐ってますよーだ! ……でもよ、ゼロポイントの俺に、向日葵が振り向くわけないだろ?」


「哀れなカモられっぷりだったわね」


「それは、もういいって! 心えぐるなって!」


「この四日間、ずっと観察させてもらっていたけど……あの子、ルダス型よ」


「ルダス型?観察されてた!? うわ……全部見られてたのかよ……超恥ずっ!」


「あれだけ公衆の面前でイチャついていればね」


「も、もう俺、お嫁に行けない……」


「貴方がお嫁に行けなかろうがどうでもいいわ誰もそんな話してないわ。話を戻すけど、人には6つの恋愛スタイルがあるの。ルダス、プラグマ、ストルゲ、アガペー、エロス、マニア—」


北条は、恋愛のスタイルについて話始めた。


「「恋愛スタイル」は、恋愛に対する態度や行動の傾向、または恋愛をどう捉え、どんなふうにパートナーと関わろうとするかという“個人の恋愛的性格”を指す。心理学や恋愛理論ではいくつかの分類があるのだけれど、有名なのはカナダの心理学者ジョン・リーが提唱した「恋愛スタイルの6分類」に分かれるの


一. エロス(Eros) – 情熱的な愛

• 見た目やフィーリング重視。まさに「一目惚れ」タイプ。

• 感情表現が豊かでロマンチック。

• 恋愛の盛り上がりを大切にするが、燃え尽きやすい傾向も。


二. ルダス(Ludus) – 遊びの愛

• ゲーム感覚で恋を楽しむスタイル。

• 複数人と関係を持つこともあり、束縛を嫌う。

• 恋愛そのものより、駆け引きや過程が楽しい。


三. ストルゲ(Storge) – 友愛的な愛

• 友情からゆっくり愛に変わるタイプ。

• 安定感と信頼を重視し、長期的な関係に向く。

• ドラマチックさには欠けるが、堅実な愛。


四. プラグマ(Pragma) – 実利的な愛

• 条件や将来性、価値観の一致などを重視。

• 恋愛というより“パートナーシップ”を築く意識が強い。

• 情熱よりも理性が先に立つ。


五. マニア(Mania) – 執着の愛

• 強い独占欲や不安を伴う愛。

• 相手への依存度が高く、気分の上下が激しい。

• 恋愛に振り回されがちで、時に自己破壊的。


六. アガペ(Agape) – 無償の愛

• 無条件に与えることを喜びとする博愛的な愛。

• 相手の幸せが自分の幸せ。

• 自己犠牲的な面があり、報われなくても愛し続ける。」


って説明されても全然頭に入ってこない…


「貴方はエロスね、まぁ貴方の理解力じゃ理解しきれないと思うけれど」


「……なんかエロい名前だな、唐突に馬鹿にされた気が…」


「情熱的だけれど、一目惚れしやすくて落とされやすい。ルダスからすれば、一番“ちょろい”のよ」


「スルーされた…ちょろいって……もう何も言えねぇ……」


「あの子は、恋愛をゲームとしてしか見てないのよ。ポイントが取れないなら、即切り捨て。だけど――」


 美月姫の目が細く鋭くなった。


「ゼロポイントになった先にも、“マイナス”という底はある。彼女はそれを知らないのよ」


「……けど、来るとは限らねーだろ?」


「来るわ。確実に。また“鴨がネギを背負ってる”って思ってね」


 なんでだろう。美月姫の話は小難しくて理屈っぽいのに、不思議と信じたくなった。……いや、信じてみたいと思った。

誰にも必要とされてない気がして、誰からも見放されたような今の俺にとって――

 北条の言葉は、冷たいのに、どこかで熱を帯びていた。


 気づけば時間は夜の八時を過ぎていた。


「もし向日葵から何かアクションがあったら、すぐ連絡しなさい。今日はもう帰りましょう。夜更かしは、お肌の大敵なの。私の美貌が失われてしまうわ」


「おっ、おう……」


 俺たちは学園を後にした。迎えに来ていた瀬馬さんの車に乗り、静かに夜の街を走った。


 帰宅後、夕飯は喉を通らず、風呂では放心状態。

 枕は涙でびしょ濡れだった。けれど、脳裏には――ちょいちょい憎たらしい北条美月姫の顔が浮かぶ。


あの理屈っぽい声。冷たい目。ため息交じりの毒舌。

 ……なのに、なぜか、思い出すたびに少しだけ胸が温かくなるのはどうしてなんだ。


 ああもう、やっぱりムカつく。ムカつくけど、忘れられない。


 ――明日、学校行きたくねぇ。でも、ちょっとだけ、会いたい気もする。



 ……ほんの少しだけ、気が紛れた気がした。

 ほんの、ちょっとだけだけどな。

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