第2話 最悪な出会い


桜の花びらが舞い散る中、柔らかな木漏れ日が俺の頬を撫でていく。春の訪れがすべてを優しく包み込み、まるで俺の新しい高校生活を祝福してくれているかのようだった。


 俺――八王子純太(はちおうじ・じゅんた)は、中学時代、常に教室の隅にいたモブキャラだった。存在感ゼロ。話しかけられることも稀で、誰かがふと「え、いたの?」と驚くほどの地味さ。


 けれど今日からは違う。俺は“高校デビュー”を果たすため、この私立恋愛学園の門をくぐる。新しい生活。知らないクラスメイト。未知の恋。ほんの少しだけど、期待していた。してしまっていた。


 だが、その淡い希望は、いきなり打ち砕かれることになる。


「にゃー」


 突如、足元から黒い影――小さな黒猫が飛び出してきた。俺の足の間をすり抜けるように駆け抜けていく。バランスを崩した俺は、あっけなくよろけた。


 ――ズボッ。


 嫌な感触が片足に伝わる。視線を落とすと、右足が見事にドブに突っ込んでいた。冷たい水が靴の中にじわじわ染みてくる。


 「……はぁあ、不吉すぎる……」


 靴は泥まみれ。制服の裾まで濡れてしまった。さわやかな朝の空気は、一瞬にしてどんよりとしたものに変わる。


 俺は基本的にツイていない。おみくじは常に凶。雨男。運命なんて信じてなかったけど、今日だけは少し信じていたのに――これかよ。


 がっくりと肩を落とし、歩き出そうとしたその時だった。


 「うおおおおっ! あと少しで……!抜け…られ…そう…です…はぁはぁ」


 前方から、焦ったような男性の声と、唸るようなエンジン音が聞こえてきた。見ると、通学路から少し逸れた細いわき道で、軽バンが側溝に前輪を落として立ち往生していた。


 「早くしなさい! セバスチャン! こんな所で立ち往生なんて、誰かに見られたらどうするのよ!」


 助手席から降りてきたのは、長い黒髪の美少女だった。白い肌に鋭い目つき。圧倒的な存在感。まるでアニメから飛び出してきたような容姿。


 彼女は腕を組み、運転席の中年男性――セバスチャンと呼ばれた男に容赦ない言葉を浴びせていた。


 黒猫……またお前か。今度会ったら絶対説教してやる。


 俺は迷った末、声をかけた。


 「……あのー、お困りですか?」


 中年男性は、ぱっと顔を明るくする。一方、美少女のほうは鋭い視線をこちらに向け、ジロリと睨んできた。その眼力に一瞬ひるんだが、俺は勇気を振り絞る。


 「お困りです!」


 「セバスチャン!」


 「お嬢様、ここはこの方のご好意を……入学式に間に合うためにも!」


 「……フン、好きにしなさい」


 セバスチャンに促され、俺は片足がドブに突っ込んだまま、彼と一緒に車を押すことに。


 「制服が汚れてしまいます!」


 「もう一回落ちてるんで! 一回も二回も同じですよ!」


 「なんと優しい……なんと清い……ゔっ」


  このお嬢様と言う奴に良く扱われていないんだろうな俺は、そう思った。


「ほら!泣いてないで押しますよ!」


 二人で力を合わせ、ようやく軽バンは脱出。セバスチャンは深々と頭を下げた。


 「改めて申し遅れました。瀬馬拓郎(せば・たくろう)と申します。この度は本当にありがとうございます!お嬢様、お礼を!」


「こんな庶民に頭を下げるなんて死んでもお断りよ」


美少女は顔を背ける


「お嬢様!」


 「ああ…いいです、いいです、俺は八王子純太です! マジで時間やばいんで! うわ、もうこんな時間!それじゃ!」


 走り出そうとした俺を、瀬馬さんが引き止める。


 「恐らく、行き先は同じかと」


 彼女の制服に目をやる。俺と同じ黒を基調としたブレザー。まさか――。


 流れで俺は車に乗せてもらうことになった。しかし、ドアを閉めた瞬間、違和感が走る。ドアノブがない。窓のハンドルもない。異様に古びた内装。そして、変な匂い。

 カビと鉄の錆びが混ざったような、湿った地下室のような匂い。鼻につく、息をするのをためらってしまう。


 ……新手の誘拐? 俺、誘拐されるのか? この美少女も共犯者?


 「八王子様が通りかからなかったら、どうなっていたか……」


 「ハウッ」


 「どうかなさいましたか?」


 情けない声を出してしまった。あわてて周囲を見回すと、ただのボロ車だったと分かり、少し安心する。

ドアノブがないのは壊れているだけ。窓のハンドルも、外れて足元に転がっていた。内装は色褪せ、シートにはタバコの焦げ跡が無数にある。変な匂いも、芳香剤とカビの悪い混ざり方をしただけのようだ。


 が、その直後――美少女の口撃が始まる。


 「安心しなさい。誘拐なんてしないわよ。そんな価値、あなたにはないもの」


 「え……」


 思わず固まる。心を読まれたかのようだった。

彼女は、バックミラー越しに、じっと俺を見つめていた。


目が合った。いや、見られていたと気づいた瞬間、俺は目を逸らしていた。鏡越しなのに、心の奥を覗かれているような感覚だった。


 「さっきから鼻息が荒いわね。美少女と一緒の空間にいられて人生最高とか思ってるんでしょ?」


 「いや、別に、そういうわけじゃ……!」


 「ふふ、そう否定するって事は図星ね。それにしても鼻息が臭いわ。どうにかならないの?」


 「く、臭い⁉︎鼻息が臭いってどういう事⁉︎俺、どんだけ胃腐ってんの⁉︎」


 もう限界だった。俺もついにキレた。


 「なんだよそれ! 助けてもらった恩人に対してその態度か⁉︎」


 「恩人? 自惚れないでくれるかしら。私はただ、労働の対価で乗せてあげただけよ」


 「頼んでねぇし!」


 「フン。粗暴な男ね。あなたも取りに来たんでしょ?」


 「……は? 何を?」


 「王の座を」


 唐突な発言に、俺は思わず絶句する。

喉の奥から絞り出した声は、自分のものとは思えないほどかすれていた。


 「……な、何だよそれ」


 「あなたっまぁいいわ。目的もない人がいるのも、恋愛学園だもの」


 沈黙。空気が重くなる。


 しばらくして、車は学園近くの路地裏に停車した。


 「口外しないことね。私がこんなボロ車で通学してるなんて知られたら面倒だから」


 「そんなん、言わねーよ」


 「懸命ね」


 俺たちが車を降りたその時だった。


 「八王子様、少しお時間を……」


 振り返ると、そこにはパンツ一丁の瀬馬さんがいた。


 「なっ、何してるんですか!?」


 「私ので申し訳ありませんが、これを……」


 そう言って、俺にズボンを差し出してきた。


 「……ありがとうございます……」


 ズボンを履き替え、俺は急いで美少女の元へ。


 「ついてこないでくれる?」


 「行く場所、一緒だろ!」


 「もう一つ言っておくわ。学園では話しかけないで」


 髪を靡かせ、彼女はすたすたと歩いていく。


 「誰が話しかけるかっての……」


 そうつぶやきながら、俺も学園の門をくぐると。

ガラス張りの校舎が、春の陽射しを受けてまばゆく光っていた。

初めて目にするその姿は、まるで未来の城のようだった。透明な壁面に空と雲が映り込み、現実感が薄れていく。こんな場所が、本当に俺の通う学校なのか。


真っ直ぐ伸びた石畳の道が見えた。その両脇には、満開の桜が並んでいる。まるでこの道を歩く者を歓迎するかのように、枝いっぱいに花を咲かせ、風に乗ってひらひらと花びらを舞わせていた。


道の先には噴水があった。円形の石の縁から、水が勢いよく吹き上がっている。陽の光が水の粒に反射して、小さな虹がかすかに見えた。


その光と花びらのコントラストが、どうしようもなく綺麗だった。まるでここだけ、別の時間が流れているみたいだった。


 その時、俺達の横から男子たちのざわめきが聞こえた。


 「見ろよ! あれ、北条美月姫だぜ!」


 「うわ、北条財閥のお嬢様じゃん! マジで女神……!」


 「お前告ってこいよ!」


 「はぁ?付き合えるわけねーだろ……砕けちっちまうよ」


 その瞬間、ようやく俺は彼女の名前を知った。


 ――北条 美月姫(ほうじょう・みつき)


 これが、俺と財閥令嬢・北条美月姫との、最悪な出会いだった。


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