第二話 三成の謀議
翌日に会津へ向けて出立する予定であったが、結局のところ、翌々日の六月十八日に家康は伏見城を発った。
何のことはない。家康を始め、多くの者が二日酔いになったのだ。酒豪の者もいたが、それが余計に二日酔いの者を多くした。彼らが、どちらが酒豪かを張り合ったのである。飲み比べの度が過ぎた結果、彼らは二日酔いになった。
これでは出立が出来ぬと、日延べとなったのだ。
それはさておき――。
もともといた城兵の多くも家康が会津征伐に引き連れて行ったので、伏見城の留守を守る兵は千とも、千八百ともいわれている。多くても二千人を少し超えたあたりであったろう。
会津征伐は、豊臣秀頼の名代としての出陣であったから、武闘派といわれていた
征伐軍は東海道を下り、七月二日には江戸城に到着している。
一方、家康打倒を目論む
「家康の軍勢は会津征伐に発った。豊臣のために今こそ起つべし」
三成は吉継に、大坂から家康がいない今こそ決起する好機――と唱え協力を求めた。しかし、吉継は冷静に情勢などを鑑み、血気盛んな三成に、
「そなたでは、家康殿には勝てぬ」
と自粛するように勧めた。
それでも、豊臣政権と主君――
真偽のほどは分からない。
だが、三成と違って大谷吉継は「此度の戦、徳川家康殿には勝てぬだろう」と考えていた。領国の石高、影響力と人望、これまでの戦の経験。どれをとっても石田三成では比較にもならない。
だというのに、負け戦も厭わず、三成に協力しようというのだ。吉継としても、徳川優位の情勢を快く思っていなかったのであろう。これ以上、徳川家康の権力が拡大するのを食い止めたい――と考えたのかも知れない。
「そなたは
吉継は、総大将は家康に匹敵する格の人物であることを主張した。そうでなければ、今や天下第一の実力者である家康と敵対することに躊躇する武将が出るだろう。それを防ぐには、頼りになる後ろ盾が必要だ。
同時に、大名間での折衝役が多かった吉継は、武断派と文治派との確執、三成に人望がないことを知っており、それをやんわりと諭したのだ。
「うむ……。やむを得まい。ならば、誰を据える?」
人望がないことを遠回りに指摘された三成が、苦々しく問うた。かつて、五奉行随一の実力者とまで謳われたのだ。自尊心が激しく傷付いたが、三成は私情を押し殺した。問われた吉継は腕を組み、しばし思案した。
「そうよな……。やはり、五大老から人選するのが良かろう。本来なら、そなたと
五大老の上杉景勝は三成と懇意ではあったが、今は会津にいて、家康の会津征伐の当事者であるから、総大将を頼むことは不可能であった。家康に引けを取らなかった
結果として、これも五大老の一人、
安国寺恵瓊は輝元の説得に前向きであった。恵瓊は僧籍にありながら、虚栄心や出世欲が強く、毛利家の外交を一手に引き受けてきた自負があった。
しかし、実際に影響力を強く持ったのは、『毛利の
慶長二年(一五九七年)六月に『両川』の残り、小早川隆景が亡くなり、ようやく恵瓊の発言力が増した。主君の輝元が権力の集中化、及び『両川』特に吉川氏の影響力を弱めたかった意図もあり、両者の利害が合致したからでもある。
前田利家亡き今、家康に対抗出来るのは中国地方に勢力を持つ毛利氏をおいて他になく、輝元としても毛利家の存在感を示すため、また、徳川家康の独裁を食い止めたいとの思惑もあったため、これを承諾したのである。
毛利輝元は七月十五日に広島を船で出立、翌十六日には大坂に到着。ついで、十七日には大坂城西の丸に入り、留守を預かっていた家康配下の者たちを追い出したのである。これで石田三成側は大坂城主・豊臣秀頼を確保し、家康打倒の大義名分を得たのである。
元和偃武 ~関ヶ原合戦から、大坂夏の陣まで~ 赤鷽 @ditd
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