「落下の解剖学」を観て
ずっと観たかった「落下の解剖学」を観ました。
私は堪え性のない現代の若者なので、二時間以上の映画を観るのに非常に二の足を踏みます。地団駄を踏みまくって、やっと観ました。
当然のように、以下ネタバレです。
本編のほとんどが裁判のシーンである「落下の解剖学」は、あっと驚く結末やどんでん返し、膝を打つような展開などはなくて、事前知識ゼロで視聴した私は「あ、そうなんだ……」とちょっと呆然としてしまったわけです。あのむかつく判事が衝撃の事実に瞠目する展開、ないんだ。そうか……。
裁判ものなのだろうなと思って観てしまった「落下の解剖学」でしたが、実際のところ、これって解釈の話だよなぁと思うなどしました。
目の前にある死をどう解釈するか、という話。
「落下の解剖学」における裁判シーンは、あっと驚く結末への布石なのではなく、ずっと家族の対話でした。
死者が残した情報が、全て「証拠」として詳らかにされる裁判の中で、家族は否応なしにすでに死んでしまった大切なひとを、そして遺された他の家族のことを必死で解釈しようとします。
この人は、どうしてこんな言葉を遺したのだろう。
あれはどういう意味だったのだろう。
最初はこじつけだった理由ですら、次第にもっともらしい真実として解釈されていく過程は、時が経てば自然と受け入れる事実を裁判というギミックを使って強制早送りで家族たちに叩き込んでいるようでした。
自殺なのか、事故なのか。
物的証拠はすでになく、遺された死者の言動をどう解釈するかという物語。
唯一の証拠である息子は、真相の究明ではなく選択をしろと迫られます。
死んだ父親のことを、どう解釈するのか。
今生きている母親に、どんな事実を与えるのか。
それは謎解きではなく、遺された息子が取った選択として裁判に切り込んでいきます。
ところで私、最近よくTwitterで夢の話題を目にします。
私は心霊にまつわる話は全く信じておらず、全ての霊的な事象は生きている人間の脳によって引き起こされる事実だと思っているタイプなのですが、夢というものは本当に不思議な一人称の世界だなと感じました。
見たものを解釈するのって、本当に麗しい特権。
「落下の解剖学」は、死者の言動が全て遺された家族への解釈のタネになっていました。
妻を無罪にできる証拠は遺さなかったけど、豊かな想像の余地を遺した。間違いなく愛……ということに、解釈したい。だって私は、生き残った妻の視点で物語を見てしまったし。
遺された家族が、これから一生抱えるべき解釈を選ぶまでの物語。
解釈を得たから、日常に戻る。人生だなぁ、と思うなどしました。
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