第99話
だいぶ暗くなってから家に帰ってくると、ダイニングに父さんの姿があった。
キッチンでは、母さんが夕食の準備をしている。ちらりと見えたフライパンの上でいい匂いを立てながらこんがりと焼かれている白身魚のムニエルは、ちょうど三人分ありそうだ。
さすがに今日の晩飯は食べていくのかと考えていたら、ふいに父さんから「お帰り、清人」という声が聞こえてきた。そして。
「ちょっと、話せるか?」
「……あいつの事?」
僕がそう聞き返すと、分かりやすく父さんの肩は跳ねたし、フライ返しを持っていたであろう母さんの手付きが少し狂ったのか、ガチャンと甲高い音がキッチンから響いてきた。
「ああ……。頼むから話を」
「いいよ」
また断られるとでも思っていたのか、重々しい口調の父さんの言葉を遮ってそう言ってやる。すると父さんは今まで見た事がないくらいに、ずいぶんとマヌケな顔をしてみせた。
なるほど。もしかしたら上代さんもこんな顔を見たのかもしれないなと思いながら、僕は父さんの正面に座ってやった。
「それで?」
僕が促すと、父さんは「直人の手術の日取りが決まった」と口火を切る。また、キッチンの方から甲高い音が響いた。
「今度は、だいぶ入院が長引きそうなんだ。手術の経過によっては、もしかしたら……」
「……」
「あの子は、直人はお前に会いたがっている。お兄ちゃんに会って、勇気をもらいたいって」
「あいにく僕は、あいつを弟だなんて思った事は一度もない」
これ以上ないって程に、ぴしゃりと言ってやる。途端に父さんは身を縮こませて、僕から視線を落とすようにうつむいた。
「十年前から、母さんやおばあちゃんがさんざん言ってきただろ。自分勝手も大概にしろって」
僕はキッチンにいる母さんに視線を流す。気のせいなんかじゃなく、母さんの背中はぶるぶると震えていた。
「父さんは、僕達家族をずっと裏切っていたんだ。相手の女があいつを産んだ途端に死んだ、それが何だよ? 先天性の病気が見つかったから、あいつを引き取って面倒見たいだって? そんな事を抜かされた時のこっちの気持ち、まだ分からない!?」
「……」
「相手の女の両親があいつを引き取ってくれた事は感謝してるよ。でもさ、あいつへの養育費や治療費の為に、僕がどんな思いで自分の夢をあきらめたと思って……!」
「清人、本当にすまなかった。お前、地元の陸上クラブに入りたいって小さい頃から言っていたのに。父さんがみっともない真似をしたばかりに」
「僕だって! 僕だってヒーローになりたかったし、井上君みたいにもっとたくさん走りたかった! 上代さんみたいにあきらめたくなかった! 瀬尾さんみたいに自分の夢に向かって頑張りたかった!!」
僕の頭の中で、どんどん大切になりつつある三人の顔が浮かんでくる。それと同時に両目から涙がぼろりとこぼれてきて、もう止められそうになかった。
瀬尾さん。僕は今、父さんと話してるよ。上代さん。今、僕は心にたまりまくってたもの遠慮なく出してやってるよ。井上君、この前はごめん。君の言う通り、僕はあの時手を抜いてたんだ。本当は君と真剣に勝負がしたかった。
いろんな思いを抱えながら、僕は今まで言いたかった事を全部ぶちまけていく。父さんも母さんも、ずっとそれを聞き続けてくれた。
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