第96話

「僕と上代さんとじゃ事情は違うけど……父親から辛酸を舐めさせられたって点は同じなんだ。だから、今回の上代さんの仕返しには拍手を送りたい」

「キヨ君……」

「瀬尾さんがうらやましいよ」


 僕は、心からそう思った。保育園の頃からずっと何も変わっていない初恋の女の子が、ちょっとだけ妬ましいと感じてしまうほどに。


「君はきっと、いいご両親に恵まれたんだろうな。だから、僕や上代さんの気持ちなんてこれっぽっちも分からないんだと思うよ」


 僕がそう言うと、途端に瀬尾さんの両肩がぴくりと動いた。それを見て、まずいとでも思ったのだろうか。僕の後ろに回っていた井上君が「おい、泉坂」と咎めるような声を出した。


「いくら幼なじみだからって、今のは言い過ぎだろ。瀬尾さんに八つ当たりをするな、今すぐ謝れ」

「何で? 僕は本当の事を言っただけだ」


 そうだろ、と同意を得る為に、今度は僕の方から上代さんに視線を向ける。それに上代さんはこくんと頷きかけたが、ふと隣に座っている瀬尾さんの「……だから、さっきから分かんないって言ってるじゃない」と言う小さな声が聞こえた。


 瀬尾さんらしくない、あまりにも小さくてか細い声だった。ちょっと前に上代さんを怒らせてしまったとしょげていた時よりもさらにか弱く聞こえて、はっとした僕は急いで瀬尾さんの方に顔を向けるが、彼女はもうすっかりうつむいてしまっていて、今どんな表情をしているのか全く見えなかった。


「分かんないよ。私、キヨ君や上代さんじゃないし……」


 しっかり耳を傾けていないと聞き逃してしまうんじゃないかと思うほど、小さい声だ。あまりにも似合わない。瀬尾さんには、転校初日の時のような明るい笑顔が一番よく似合っているって僕は知っていたのに……。


 そう思ったら、自分でも信じられないくらいの強い罪悪感に襲われた。井上君に言われても何とも思わなかったのに、瀬尾さんがうつむいて小さな声を出したってだけで、とんでもなくひどい事を言ってしまったんじゃないかっていう後悔まで出てきた。


「せ、瀬尾さん……」


 謝ろう、今すぐ謝らなくちゃ。心からそう思ってるのに、まるで金縛りにあったかのように僕の体は、口はうまく動いてくれない。「ごめん、今のはさすがに言い過ぎだった」って言いながら、頭を下げればいいのに。頼む、動いてくれよ僕の体。僕の口。


「それに」


 その時だった。瀬尾さんの、次の言葉が聞こえてきたのは。


「私には、そんな事してくれる親はいない・・・・・・・・・・・・・・。家族はおばあちゃんだけ。だから、キヨ君や上代さんみたいな経験できないから、二人の気持ちが分かんないの」

「え……」


 これには僕も上代さんも、そして井上君も絶句した。そういえば、前に上代さんの父親と会った時にも両親はいないとか言ってたような……。


 まずい、まずい、まずい! 僕は本当に、瀬尾さんに何て事を……!


 胸の奥で、警鐘が鳴り響く。これが俗に言う良心が痛むっていう事なのだと気付くが、それより一瞬早く瀬尾さんは椅子から静かに立ち上がり「……私、帰るね」と言ってダイニングから出て行った。


「せ、瀬尾っ! ちょっと待って!」


 その後を、トロフィーを抱えたままの上代さんが慌てて追いかける。二人分の飲みかけの紅茶の入ってティーカップが、まだほんのわずかに湯気を立てていた。

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