第94話
「か、上代……。それはお前、さすがにヤバすぎだろ……」
井上君が、らしくない小さな声で言った。
「おじさんからお前の昔の話は聞いたけどさ、だからって何もそこまでしなくても。親父さんの仕事がダメになったら、それこそお前本選出場どころの話じゃ」
「大丈夫よ、偽物だから」
まるで他人事のようにそう返しながら、僕の淹れた紅茶をひと口啜る上代さん。一応備え付けに砂糖やミルクも用意していたけど、それらには一切手も触れないで口を付けたものだから、正直まずいだの苦いだのと文句を言われる覚悟はできていたが、上代さんは特に何も言わなかった。きっと思っていた以上においしく淹れられていたんだろう。そして、彼女のその言葉に、僕は二重の安堵でほっと息をついた。
「偽物って……?」
「さすがにそこまで鬼畜な真似はしないって。前にも話したでしょ、おじさんは昔から手先も口先も器用だったって。ああ見えて、昔は俳優をやってたのよ」
「え……」
「だから、ちょっとした小道具を用意してもらって、クソ親父やおじいちゃんに本物の書類だって信じ込ませるようなセリフを言ってもらったの。そしたら、あっさり過ぎるくらいうまくいってね。皆にも見せてやりたかったなあ、クソ親父のあのマヌケ面」
ティーカップをソーサーに置き直した上代さんは、ものすごくすっきりした顔を見せていた。つい数時間前まで、一人で大きな舞台に立って全力で歌っていたんだ。その緊張感から解放されたっていうのもあるんだろうけど、ある意味呪いじみていた父親からの束縛からも解き放たれた喜びって奴も少なからず含まれてるんだろう。やっと自分の夢を取り戻す事ができたと言わんばかりの、いい笑顔だった。
「泉坂、時間はかかったけど私はやってやったわよ」
上代さんが、僕に言った。
「これで分かったんじゃない? こっちが強気に出てやれば、クソ親父なんかに絶対負けっこないって」
「……」
「あんただって心の中にたまりまくってるもの、遠慮なく出し切っていいんじゃない?」
上代さんの言葉で、僕の脳裏に彼女と同じ舞台に立ってた「あいつ」の姿がまざまざと蘇る。僕はこみ上げてきた吐き気を堪えようと、反射的に口元を片手で押さえた。「泉坂!?」と僕を心配する井上君の声が、やたら響いて聞こえた。
たまりまくってるものを遠慮なく出せ? そんな事ができるなら、もうとっくの昔にやってる。でもダメなんだ。それをやったら、今度こそ僕と母さんの方が「悪役」になる。そして父さんと「あいつ」が自動的に悲壮感溢れる「正義側」になってしまうんだ。
何でだよ。どうして僕達が悪くて、「あいつ」が正しいとされてしまうんだ。悪いのは全部、全部……!
その時だった。
「……ダメだよ、上代さん。そんなひどいやり方をしちゃ」
井上君の次に聞こえてきたのは、これまで聞いた事がないようなとても悲しそうな瀬尾さんの声だった。
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