第93話

「とにかく、あの場にいたくないって気持ちでいっぱいいっぱいだったんだ。そのせいで、たまたまあんなふうに走れたってだけの話だよ。もちろん、上代さんには悪い事をしたと思ってる……」

「お互い、ろくでもない親父を持つと苦労するわよね」


 ふいにそんな事を言ってきた上代さんに、僕は当然だったが、瀬尾さんも井上君も心底驚いた顔をして彼女を振り返る。上代さんはまだトロフィーを大事そうに抱えているが、その様にはあまり似つかわしくないほどに頬を膨らませ、フンッと荒い鼻息を漏らしていた。


 え、もしかして……いや、そんなまさか。でも、上代さんは小学校の頃からずっと同じクラスなんだ。ひょっとしたら、一度や二度くらいは父さんの顔を見た事があるかもしれない。そして、あの応援席に座っていた父さんの姿を見つけていたとしたら……。


「……何の事?」

「まだとぼけようとするなんて、あんた本当にいい度胸してるじゃん」


 呆れたようなまなざしで僕を見る上代さん。僕はここで、上代さんの「親に夢をあきらめさせられた私・・・・・・・・・・・・・・と、親の事でいじけて勝手にあきらめたあんた・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」という言葉を思い出す事ができた。


 もうごまかしきれないと判断した僕は、ふうっと小さく息をついてから「いつから?」と尋ねた。


「いつから知ってたんだよ?」

「小学二年の一学期、あんた一回だけ学校休んだでしょ? 私、あの日は日直だったから、あんたの家に宿題のプリントを届けに行ったの。そしたら……」


 心臓が一拍、大きく波打った。嫌な予感って奴はどうにも的中率が半端ないらしく、まさか「あの日」の「あんな出来事」を他の誰かに見られていたなんて。


 いや、今さらか。「あの日」の両親の口論は家じゅうどころか、外にだって大きく響き渡っていたはずだ。そりゃあ、近所の奥様方にとって十年来の物笑いの種にされる訳だよ。いまさらその中に上代さんが一人含まれたところで、もうどうって事はない。何にも覆りはしないんだ。


「言っとくけど、私はもう一抜けさせてもらったからね」


 僕が悶々としていたところに、また上代さんが言葉を放ってきた。どういう事だとぱっと顔を上げてみれば、次に見えた彼女の顔はひどく誇らしげなものに変わっていた。


「ここに来る前に、おじさんと家に行ってきた。このトロフィーをクソ親父に見せつけてやりにね」

「お、おいおい……大丈夫だったのかよ?」


 井上君がおろおろと両手をばたつかせながら言う。そんな彼の姿がおかしかったのか、上代さんはぷぷっと小さく吹き出した。


「もちろん、おじいちゃんと一緒に思いっきりキレられたわよ? でもね、こっちにだってたまるにたまった鬱憤ってものがあったんだから、当然やり返してやったわよ。あいつが今取り組んでる仕事の重要書類、目の前で燃やしちゃった♪」


 まるで小さな悪戯が成功したかのような言いぶりだったが、さすがに笑えない。僕も井上君も瀬尾さんも、同時にひゅっと嫌な空気を吸い込んだ。

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