第92話

「……あの子、特別賞を獲ってたぞ」


 三人を家の中に招いて、ひとまずダイニングのテーブルに着かせた。そして来客用の紅茶はどこだったかなと食器棚の中を探していた僕の耳に、井上君のそんな言葉が飛び込んできた。びくっと全身が揺れてしまったが、母さんが大事にしているティーカップを落として割らなかっただけ、ほっとした。


「まあ、俺には遠く及ばなかったけど、十歳であれだけ歌えれば上等じゃないか? 瀬尾さんも上代もそう思っただろ?」

「まあね」


 井上君の言葉に、上代さんがこくんと頷いたのが肩越しに見えた。


「控室のモニターで見てたけど、同い年じゃなくてよかったって一瞬思ったかな? ちょっと焦ったしね」

「そんな事ないよ! 上代さんの歌、本当に素敵だった! えっと、ほら何だっけ…? レ・ミディアムの……」

「レ・ミゼラブルの民衆の歌、それの独唱でしょ?」


 呆れたように訂正する上代さんだったが、瀬尾さんに向けるその表情は以前と違って柔らかくなってる。少なくとも、またビンタを食らわしてやろうだなんていう顔じゃない。ましてや間違えてしまった瀬尾さんをバカにする素振りをほんのちょっとも見せなかったから、僕はまたほっとして紅茶の準備をし始めた。


 このまま、「あいつ」の話題なんてきれいさっぱりなくなって、ここで優勝した上代さんのお疲れ様会に突入できれば……なんて思っていたが、どうやらそうは問屋が卸さないようだ。全員分の紅茶をティーカップに注いで運んできた僕に向かって、井上君が「泉坂」と切り出してきた。


「やっぱりこの前、手を抜いてただろ?」

「……何の事だか、さっぱり分かんないな」

「とぼけんな。俺、お前がホールを出てから全力で追いかけたのに、一気に突き放されて……結構ショックだったんだけど!?」


 ちょっとだけ恨みがましそうに言ってくる井上君だったが、そこは火事場のバカ力……は、ちょっと違うか? とにかく、あの場にいたくないという強い気持ちが引き起こしたある種の奇跡みたいなもんだと思って見逃がしてほしい。


 だというのに、決してそうはさせてくれないのが瀬尾さんなんだ。


「だから言ったでしょ? キヨ君はとびっきり足が速いんだって。井上君が敵うはずないもん」


 まるで自分の手柄みたいに、ちょっとだけ胸をふんぞり返らせてそんな事を言う瀬尾さん。僕は皆の前に紅茶を並べながら「ただのまぐれなんだから、そんな大げさにしないでくれよ」と言った。

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