第91話

母さん特製のミートソースパスタで空腹を満たしたら、途端に強い眠気に襲われた。


 きっと、久し振りに全力疾走したからだ。もしかしたら、明日は筋肉痛になるかもしれない。そんな事を思いながら眠い目をこすっていれば、母さんが「少し寝てきたら?」と言ってくれたのでお言葉に甘える事にした。


 夕飯の買い出しに行くという母さんを玄関から見送った後、まっすぐ自分の部屋に向かった。そのままパジャマに着替えもせず、ばたりとベッドにうつぶせに倒れ込む。頭の中も体も疲れ切っていて、重くなっていくまぶたに抗うすべはない……。そんな事を思いながら、意識を手離そうとした時だった。


「キ~ヨ~く~ん! あ~そび~ましょ~!」


 あともうほんの数瞬もあれば眠りに就けるというタイミングで、またも聞こえてきたその声。しかも今度は玄関の方からじゃなくて、僕の部屋の窓越しにだ。


 もはや条件反射並みにがばりと跳ね起きてしまった僕の耳に、また「キ~ヨ~く~ん! あ~そび~ましょ~!」の声が届く。そしてそのすぐ後に、別の声も響いてきた。それも、二人分。


「泉坂~! お前は今、完全に包囲されている! 観念して出てこい、田舎のおふくろさんが泣いてるぞ~!」

「ちょっと泉坂! あんた、私の応援しないで帰るとか、マジでいい度胸してんじゃん! ヤキ入れてやるから出てきなさいよ!」


 片方は陸上で鍛えているし、もう片方はあの声量だ。どちらも肺活量は並大抵ではないだろう。そして僕に対していろんな感情がフルカンストしている子も含んだ、合計三人分のふざけ切ったバカでかい声はもはや近所迷惑というレベルを超えて、公害に著しく近付いているに違いない。


「……っ、分かった! 分かったから、もう黙ってくれよ!!」


 これ以上は本当に勘弁してもらいたくて、僕は急いで部屋の窓を開ける。すると眼下では、瀬尾さんと井上君、そして右手で抱えられるだけの大きさのトロフィーを持った上代さんがしてやったりと言わんばかりの顔でこっちを見上げていた。


「とりあえず……優勝おめでとう、上代さん」


 トロフィーにかかっている『優勝』と書かれた紅白の帯と、上代さんの凛とした佇まいから、あの後の結果が手に取るように分かった僕はお祝いの言葉をかける。すると上代さんは空いた左手の人差し指をちょいちょいと動かしながら、「そう思うなら、とっとと私達を中に入れなさいよ」といつもと全く同じ調子で言ってきた。


 僕は立てこもりをしでかした愚かな犯罪者が投降する気持ちを十二分に味わいながら、玄関の鍵を開けるべく部屋を出た。

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