第90話
ずいぶん久しぶりに、全力疾走したと思う。気が付いた時には、僕は少し息切れをしながらも家の前に立っていた。
うっすらと浮かんできていた額の汗を拭ってから、何となく自分の足下に目を向ける。たたでさえくたびれてみっともない様になっていた僕のスニーカーなんかが全力疾走に耐えられるはずもなく、両方の指先のあたりに小さな穴がぱっくりと開いてしまっていた。続けて靴底の方も確認してみれば、もうほとんど擦り減ってしまっていて、その役割を果たせそうになかった。
「前に使っていた奴、どこにあったかな……」
ぽつりと独り言をつぶやいてから、ポケットの中に入れっぱなしにしておいたはずの玄関の鍵を探す。だが、それを使うよりもずっと早く、玄関のドアがふいに開かれた。
「……清人? どうしたの、こんな早くに帰ってきて。何かあった?」
顔を上げてみれば、そこにはずいぶんと驚いた様子の母さんが立っていた。
それもそうだろう。今朝、クラスメイトが出るオーディションに応援に行くと言って、僕は家を出たんだ。井上君の案で、上代さんの結果がどっちに転ぼうと、おじさんのカラオケ店でお疲れ様会をやる事にもなっていたので、帰りは晩ごはんの頃合いになるかもしれないとも言ってあったのだから。
親しい友達もいない僕がクラスに馴染めていない事を、母さんも薄々気付いていたと思う。だから、今朝はとても嬉しそうに送り出してくれたんだろう。なのに、予定よりもずいぶん早く僕が帰ってきたものだから、何かあったのかといぶかしむのは至極当然の事だ。
これ以上、母さんを驚かせる必要はない。そんな事は、頭ではよく分かっている。でも、理性より感情の方が大きく膨れ上がっていた今の僕には、とても黙っている事などできなかった。
「クラスメイトが出ているオーディションに、『あいつ』がいたんだ……!」
「えっ……」
「父さんも、のんきに応援に来てた!」
この二週間、父さんはほとんど家に帰ってきていなかった。たまにいたかと思えば、「着替えを取りに来ただけだ」と言って、そそくさと出て行ってしまっていた。母さんの顔を見る事は決してなかったし、ごはんだってひと口も食べていかなかった。
「ふざけんなよ、くそったれ……!」
僕は心の底から、ありったけの感情をこめて叫んだ。
「僕は絶対に認めない、認めてやるもんか! あんな奴は、僕の……」
「清人!」
感情のままにぶちまけそうになった僕の言葉を遮る為に、母さんが珍しく大きな声で僕を呼ぶ。それにはっと我に返った僕が再びそっちを見やると、母さんは口元を少し歪ませながら僕を見つめ返していた。
「大丈夫、分かってるから」
母さんが言った。
「とにかく、家に入りなさい。お昼ごはん、まだでしょ? すぐに作るから」
そんな優しい言葉に応えるかのように、僕の腹の虫がみっともなく鳴いた。
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