第89話
とても見やすい位置の座席が災いした。紹介に伴って舞台袖から出てきた奴の顔を、僕ははっきりと見る事ができてしまった。
緊張がピークに達しているのか、ひどくゆっくりとした歩調でステージの真ん中にあるマイクスタンドの元までやってきた「あいつ」。最後に会ったのは、もう何年前になるんだろう。確かに以前より背は伸びているようだけど、それでも平均よりずっと痩せっぽちで腕も足もひょろひょろと細長い。肌も色白を通り越して、少し青みがかっているように見えた。
「……え~、こちらのエントリーシートによりますと、『僕には大きな夢があります』と書かれていますが、それはいったい何でしょうか? ここで改めて教えていただけますか?」
パンツスーツ姿の女性もマイクスタンドの元まで近付き、「あいつ」に優しい笑みを向けながら質問してくる。すると「は、はいっ……」と声を詰まらせつつも、「あいつ」は答えた。
「実は僕、少し難しい病気にかかってます。今日は特別にお医者さんから許可をもらってここに参加しました。病気が治りますようにって願いながら、大好きな『Lemon』を歌おうと思いますっ……」
「そう言うって事は、とても思い入れのある曲なんですね?」
「は、はいっ。ほんのちょっとだけど、
ここで、僕の限界は訪れた。ふざけるな、そんな訳ないだろう! 前に会った時にも言っただろ、そういう自己満足な思い上がりも大概にしろって!
僕は勢いよく座席から立ち上がった。申し訳ないけれど、上代さんの応援どころじゃない。一瞬でも早く、この場から立ち去りたくて仕方なかった。
「キヨ君!?」
突然立ち上がった僕に相当驚いたのか、瀬尾さんは抱き締めていた馬のしっぽからはらりと両腕を離して、僕をぽかんと見つめる。井上君もおじさんも似たような表情をしていたが、それに構う余裕はもう僕の中には残っていなかった。
「ごめん、僕は帰る」
それだけ言うと、僕は右隣にいた他の観客達の迷惑なんかものともせず、強引に彼らの前を通り抜けていく。そしてやっとの思いで通路に立つと、勢いを付けてホールを出ようとした。その時だった。
「……清人!?」
嫌な事って、本当に続くものだと思った。僕の名前を呼ぶ声につい反射的に振り返ってしまうと、少し離れた座席からこっちを見ている父さんと目が合った。
なるほど、そういう事か。「あいつ」が歌が好きだって事を忘れていた……というより覚えてやるつもりもなかったから、まさかこんな所で出くわすとは思っていなかった。そんな自分のマヌケぶりにも腹が立ったが、それ以上に腸が煮えくり返ったのは、この場に父さんがいるという事実そのものだ。
「本当、何様のつもりだよ……!」
心底軽蔑しながら父さんにそう言うと、僕は一気に加速して走り出した。「……っ、待てよ泉坂!」と井上君の声が追いかけてきているような気がしたが、それも会場の外まで出てしまえば、すぐに聞こえなくなっていった。
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