第86話
おじさんの姿が見えたのは、それから十五分くらい経ってからの事だった。
「ようよう、待たせたな~」
そう言って近付いてきたおじさんは、いつものだらしない格好ではなかった。ていねいに梳かした上に整髪料で固めた髪形はよく似合っているし、くたびれた開襟シャツとシワだらけのズボンどころか、とても紳士的で高そうなデザインのスーツを着こなしている。そうなってくると小太りだと思っていた体型も、よく見ればだらしない格好が見せていた虚像だったんだとよく分かった。
そして何より、今のおじさんの姿に僕はデジャヴを感じていた。この人のこんな姿を、どこかで見た事があるような気がたまらなくなったんだ。あれ、どこでだったっけ……?
どうにも思い出せずに首を傾げ続ける僕に気付く事なく、井上君がおじさんに話しかけた。
「おじさん、今日すごくカッコいいですね! メチャクチャ若く見えますよ!」
「おいおい、俺はまだ三十六なんだぞ。年寄り扱いするなって~」
そんなに若かったんだ……。井上君に向かって困ったような顔を浮かべるおじさんに、僕は五十代くらいに見えると思った事を心の中でそっと詫びた。
一方、瀬尾さんはおじさんが来たあたりから何だか落ち着きがなく、そわそわとあたりを見回している。あと数分で入場が開始される時間だった。
「……あの、上代さんは?」
少し不安そうに、瀬尾さんがぽつりとつぶやく。きっと、上代さんの健闘を願う馬のしっぽを見てもらいたかったんだろう。心なしか、しっぽまでしょんぼりとうなだれているように見えた。
それに気付いたおじさんが、「ああ……」と吐息混じりの声を出してから答えた。
「サナなら、もうだいぶ前に会場入りしてるよ。エントリー受付もしなきゃいけなかったからな」
「ええっ⁉」
それを聞いて、ますますしょんぼりとする瀬尾さん。激励をしたいという気持ちは同じだったのだろう、井上君も「マジかぁ……」なんてつぶやく。
そんな二人を見て、おじさんはくつくつと笑った。
「まあ、悪くは思わないでやってくれ。サナらしいと言えばそうなんだから」
「と、いうと……?」
「久しぶりの大会にちょっと緊張はしてたけど、それ以上に楽しみで仕方ないって感じだったからな。そんな姿を友達に見られるのは照れ臭くて仕方なかったんだろ。勘弁な?」
僕の問いに答えてから、おじさんはまだ愉快そうに笑っている。おじさんのそんな笑みを僕は昔、確かに見た事があるはずなのに、いまだに思い出す事ができずにもやもやとしていた。
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