第85話

自分がオーディションに出る訳でもないのに、そこまで気合い入れる必要ないだろとか、上代さんの服に縫い付けようとしなかっただけマシだなとか、バカにするような言葉をいくらでも吐き出してやる事はできたと思う。でも、そんな気は微塵も起きなかった。瀬尾さんが自分の夢の為ではなく、誰かを応援する為にしっぽを着けるなんて初めて見たから……。


「どうかな? ちゃんと馬に見える?」


 くるくると全身を回転させながら、ふわふわのしっぽをなびかせる瀬尾さん。応援旗でも振ってるつもりなのかと一瞬だけ苦笑いしてから、僕は答えた。


「うん、大丈夫だよ」

「……え?」

「ちゃんと馬に見えてる。よくできてると思うよ」


 特別な事なんて何も言ってないし、ありきたりで月並みな返事だったと思う。それなのに瀬尾さんは僕のそんな言葉を聞いて、大きく両目を見開く。そして、次の瞬間にはとても嬉しそうな満面の笑みを浮かべた。


「……嬉しい」

「何が?」

「初めてキヨ君に褒められたような気がする。ずっと頑張ってきてよかったなあって思った」


 そう言って、わずかに体を左右に揺らしながら口元に弧を描き続ける瀬尾さん。何言ってるんだよ。今日頑張るのは上代さんであって、僕達は応援するだけでいいんだよ。瀬尾さんがそこまで頑張る必要は、少なくとも今日でなくていいんだよ……。


 でも、そんな言葉も喜び続けている瀬尾さんの前では全然形になってくれなくて、僕の喉の奥へとほどけて沈み込んでいく。それどころか、ずっと見ていたいだなんて思ってしまっていた。こんなふうに笑っている瀬尾さんを……。


「……あっ、いたいた! 泉坂、瀬尾さ~ん!」


 人混みの中、二人だけでいた時間なんてほんの数分だった。遅れてやってきたジャージ姿の井上君が僕達を見つけた途端に大声で呼んできたものだから、何だか優しい魔法がぱっと解けてしまったような気になってたまらなくなった。


 その証拠に、瀬尾さんはもう僕にしっぽの話を振らなくなったし、井上君にも話さないどころか、「上代さんの応援、気合入れてこうね!」なんて発破をかけている。こういう空気にはすっかり場慣れしているんだろう。僕と違って、井上君はこれっぽっちも物怖じしないばかりか「おうともよ~!」とゴリラのようなガッツポーズを決めていた。


 それを何となく寂しいと思ってしまった気持ちを慌てて頭の中から追い払った僕は、待ち合わせの最後の一人となったおじさんの姿を捜すふりをする為に、いったん二人から静かに離れた。

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