第62話
「瀬尾さん……?」
周りと同じように、井上君も戸惑ったような声を出すが、瀬尾さんはこっちを振り返る事なく、さらに上代さんの父親に詰め寄るように言った。
「今回の事は、私が上代さんの嫌がる事をしたんです。だから、私の自業自得なので治療費なんていりません」
「いや。どんな理由があっても、うちのバカ娘があなたにひどい事をしたのは事実だ」
「そのバカ娘って言うのも、やめてあげてくれませんか? 上代さんだって嫁入り前の女の子だし、何より私の友達なんですから」
瀬尾さんのその言葉に、上代さんの両目がまた大きく見開かれる。だが、それを瀬尾さんに気付かれるより早く、上代さんはその横を擦り抜けるようにして再び歩き出した。
「あんた、本当にバカじゃないの……誰が、あんたなんかと!」
まるで捨てゼリフのようにそう言い切ると、今度こそ上代さんは足を止める事なく進んでいく。僕や井上君の横をも通り抜け、立ち止まる事も振り返る事もなく昇降口の方へ行ってしまった。
「サナ、待ちなさい!」
上代さんの父親が大きな声を張り上げるが、娘の姿が廊下の角を曲がって見えなくなってしまうと、チッと大きく舌打ちをした。そしてスーツの懐から財布を取り出すと、その中に入っていた名刺を一枚抜き取り、それを瀬尾さんに強引に手渡した。
「ご両親に、ここへ連絡いただけるように伝えて下さい。できる限りの誠意は見せるつもりなので」
「……そんな事より、上代さんを追いかけて下さい」
瀬尾さんは渡された名刺を突き返しながら、言った。
「それに、私には両親がいません。今は祖母と二人で暮らしています。祖母はスマホ持ってませんし、家の電話も使うなって言ってあるんで連絡しようがないです」
「じ、じゃあ、あなたと直接」
「いいですから」
瀬尾さんの手のひらの中で、名刺がぐしゃりと握り潰される。それを見て顔をしかめた上代さんの父親は、結局名刺を受け取る事なく、娘の後を追って廊下の奥へと行ってしまった。
事の一部始終を見ていた周りの生徒達も、当事者が二人もいなくなってしまったらもう興味をなくしてしまったのか、まるで何事もなかったかのように元のざわつきを取り戻し始める。そんな中、井上君はふうっと大きく息を吐いた後で「瀬尾さん、大丈夫か?」と彼女の元へと駆け寄った。
「びっくりしたよ、あんな怖そうな大人相手に堂々と……」
「ううん、実はもう限界だったりするんだよね」
「え?」
井上君が不思議そうに首を傾げた瞬間、瀬尾さんは急激に力が抜けたかのように、膝からぺたんとその場に座り込んでしまった。キツネ風のしっぽがまた腰の下敷きになってしまっていたけど、それを気にする余裕はなさそうだった。
「こ、怖かった……。またビンタされるかと思ったぁ……!」
「いや、すっごくかっこよかったよ瀬尾さん! なあ、泉坂?」
「え? う、うん……」
確かにそういう意味では、かっこよかったかもしれない。僕だったら、たぶん無理だ。父さんにだって、あんなふうに堂々と文句を言えたためしがないんだから。
それを悔しく思う僕に気付きもしないで、瀬尾さんは「ん!」とこっちに向かって甘えるように両腕を突き出してきた。
「キヨ君もそう思うんなら、教室まで連れてって。腰が抜けちゃった~……」
「……井上君、手伝ってくれ」
はあっと深いため息をつく僕とは対照的に、井上君はとびっきりの笑顔で「OK!」とサムズアップした。
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