第57話

「ほっぺた以外で、どこか痛む所はない? 首とか肩はどう?」

「……大丈夫です」

「首は動かせる?」

「はい……」

「それじゃあ、むち打ちとかの心配はなさそうね。でも念の為に、そのまま冷やしておいてね」


 遠藤先生は素早く手のひらサイズの氷嚢ひょうのうを用意すると、それをそっと瀬尾さんの右頬に当てた。思っていた以上に冷たかったのか、それとも赤くはれた右頬に少し染みたのか、瀬尾さんの目元が一瞬ぴくりと揺れる。そんな中、僕は何度目かのため息をついたって訳だ。


「それじゃあ先生は、ちょっと音楽室に行って話を聞いてくるから。二人はこのままここにいてね?」


 僕から少し話は聞いたものの、もっと詳しく状況を知りたいと思ったんだろう。遠藤先生が足早に保健室を出て行くと、ただでさえ消毒液臭い保健室の中がさらに居心地の悪い静けさを取り戻してしまい、僕はとてつもなく嫌な気分になって、またため息をつく。


 そして何より、瀬尾さんにひと言言ってやりたくてたまらなくなった。


「……だから、今朝言っただろ。ああいうのに目を付けられるぞって」

「……」

「上代さんに何を見せたのかは知らないけど、相当嫌なものを見せたんだろ? じゃなきゃ、上代さんがあそこまで嫌がるはずないもんな」

「……」

「自分がされて嫌な事は、他の人にもしちゃいけないって小学生の時に習わなかったのか? 確かにビンタはやりすぎだと僕も思うけど、上代さんを怒らせたのは間違いなく瀬尾さんなんだから、そこは謝った方が……」

「……」

「ねえ、聞いてる?」

「……」


 瀬尾さんは、いつまで経っても口を開こうとしない。いくら氷嚢を右頬に当てているからって言っても別に口の中がしびれてしまうほど冷たくないはずだし、元々はあんなに明るい口調でしゃべる子だ。何かしら返事をしてくると思っていたのに、ずっとだんまりでいる。


 それがちょっとムッと来たので、僕は瀬尾さんの顔を覗き込むようにしてもう一度「僕の話、聞いてんの?」と話しかける。すると瀬尾さんは、遠藤先生のデスクの上に置いてあったメモ用紙の束とボールペンを見つけると、それらを空いている方の左手で手繰り寄せ、何事かすらすらと書き綴りだした。そして。


『キヨ君、さっき「もうあんまり話しかけないで」って言った。だから、これでお話するね。』


 そう書かれたメモ用紙を僕に向かってそっと掲げた。その時の瀬尾さんは意地を張っているふうには見えず、むしろ上代さんにぶたれた瞬間よりもずっと悲しそうに見えて、僕は思わずその場に立ち尽くした。

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