第56話

……こんな事が起こるって一学期の始めに分かっていたら、保健委員なんかに立候補しなかったのに。何度もそう後悔しながら、僕は保健室の中で何度目になるか分からない大きなため息をついた。


 あれから、音楽室はまさに阿鼻叫喚といった感じになった。上代さんの強烈な平手打ちがものの見事に瀬尾さんの右頬に決まった瞬間、クラスの大半が甲高い悲鳴をあげたり、「おい、マジかよ!」「さすがにやりすぎだろ!」と大声で騒ぎだした。


「ちょっとサナ、ヤバいって!」

「……っ、うるさい! 恵、離してよ!」


 恵と呼ばれたグループの女子の一人が上代さんを落ち着かせようとその肩を掴んだが、彼女はそれを振りほどこうとして暴れる。そしてもう一度瀬尾さんを引っぱたこうとしてるのか、キッと鋭い目を向けていた。


「瀬尾! あんたの事、絶対に許さないから……!」

「……」


 瀬尾さんはぶたれて横を向いてしまったまま、ひと言も言い返さない。見る見るうちに赤くなっていく右頬にそっと手を添えるだけで、他に何もしようとしなかった。


 そんな瀬尾さんのおかしな様子に気付いて真っ先に行動を起こしたのは、新谷先生と井上君だった。


「……だ、誰か! このクラスの保健委員に瀬尾さんを保健室まで連れていかせて!」

「はい! おい、泉坂!!」


 新谷先生の言葉にいち早く反応した井上君が、僕の名前をものすごく大きな声で呼ぶ。それにびくりと全身を震わせた僕に、井上君はさらに言った。


「瀬尾さんを保健室まで頼む!」

「え、でも……」

「このクラスの保健委員はお前だろ! 早く瀬尾さんを連れていけ!」


 そうきっぱり言い切った後、井上君はまだ暴れようとしている上代さんの元へと向かっていく。小学校の頃からずっと同じクラスだったけど、こんなふうに癇癪を起す上代さんを見るのは初めてだったし、ゆえに当然の事ながらそれを治める術すら知らない。


 この場はクラスのムードメーカーである井上君に任せるのが一番だと確信した僕は、まだ呆然としている瀬尾さんの手を掴んで、そのまま引っ張るように音楽室のドアへと歩き出した。


「……キヨ君?」


 背中越しに、瀬尾さんの小さな声が聞こえてきたが、僕はそれには何も応えないまま、まっすぐに保健室へと向かい、今に至るという訳だ。


 幸いな事に、養護教員である遠藤えんどう先生は在室していて、僕がノックもせずにドアを開けた事にちょっとびっくりしたような顔をしてみせたが、瀬尾さんの少し腫れた右頬を見た途端、急にきりっとその表情を引き締めて「どうしたの? すぐに手当てするからね」とてきぱきと準備をしてくれた。

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