第52話

「そっか、ライバルかぁ……」


 ひとしきり笑った後で、井上君は目尻にたまってしまった涙の粒を指先で拭いながらそう言った。


「じゃあ俺は、瀬尾さんにそういう存在だと認めてもらえたって解釈でいい?」

「だって、そうじゃないの?」


 瀬尾さんが首を傾げながら答えた。


「少し話しただけで分かったから。井上君がキヨ君のライバルだって」

「それは光栄だな」


 嬉しそうに言ってから、井上君が僕の方に顔を向けてくる。そして、きっぱりと「泉坂」と声をかけてきた。


「俺、まだあきらめてないからな」

「は?」

「瀬尾さんから直々に認定してもらえたんだ。だから、絶対その気にさせてやる」

「だから、何を」

「そうだな。ひとまず今の目標は、お前に陸上部へ入ってもらう事かな」


 ……まだ、そんな事を言ってるんだ。何てあきらめの悪い奴なんだろう。


 いや、そもそもあきらめが悪かったら、全国クラスの陸上選手になれるはずもないか。そう思いながら僕がため息をつくのと、「いいか、忘れるなよ泉坂」という言葉を残して井上君が離れていくのはほぼ同時だった。


 僕は心底恨めしい思いを乗せた目を、じろりと瀬尾さんに向ける。瀬尾さんは「ん? なあに?」とまた首を傾げていた。


「どうしたの、キヨ君?」

「余計な事を言わないでくれないかな、瀬尾さん」

「余計な事?」

「前にも言っただろ。井上君は全国レベルのすごい選手だって。そんな奴と、保育園の時にちょっと足が速かっただけの僕と一緒にされたら困るんだよ」

「どうして困るの?」

「だから、それは」

「キヨ君は、何も困るような事ないよ? あの頃と何も変わってないんだから」


 ……カチンときた、さすがにこれは。


 どうして分からないんだとも思う。鈍感にも程があるっていうか……瀬尾さんがあまりにも変わっていないだけだろう。大抵の人間は多かれ少なかれ、生きている限り変わり続けていくんだ。見た目も考え方も、性格や才能だって。僕だってそうだ、瀬尾さんみたいに例外じゃない。変わったんだよ、あの頃とはもう違う。


「瀬尾さんがうらやましいよ」


 皮肉をたっぷり乗せながら、僕は今度こそ席から立ち上がった。


「あまりにも能天気すぎるから。ちょっと、イライラする」

「え……」

「もうあんまり話しかけないでくれるかな? 否定するつもりは一切ないけど、だからって瀬尾さんの夢の応援団長になった覚えはないんだし」


 ぷいっとそっぽを向いた後、僕は次の三時間目の分の教科書を持って教室を出る。瀬尾さんがどんな顔をしていたかなんて分からなかったし、知りたいとも思わなかった。


 次の授業は、音楽だった。

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