第45話
階段の最初の一段に足をかけたまま、僕は振り返りもせずに「……何?」と返した。
「前にも言ったと思うけど、僕は母さんと同じ気持ちだよ。母さんが嫌がる事は、僕にとっても嫌な事だっていい加減分かってほしい」
「そんな……頼む、もう一度ちゃんと話を」
「昔、母さんもそう言ってすがってたけど、その時自分が何て言ったのか、それも忘れたのか?」
瀬尾さんの事はほとんど覚えていなかったっていうのに、「あの日」の事はまるで昨日の事のように鮮明に思い出せる。取り乱して、怒って、泣いて、それでも自分達家族を選んでほしいとすがった母さんに向かって、父さんが放ったあのひと言は両耳の奥にへばりつくように残っているんだ。
あれをすぐ近くで聞いていた幼かった僕は、必死でヒーローに祈り続けた。助けて、今すぐ来て。どんな強くて凶暴な敵でも一撃で倒せる必殺技を、父さんの心の中にいる悪者に向かって撃って。どうか、今すぐ僕達を助けて下さいって。それなのにヒーローは来なかったし、父さんは変わってしまったままだ。
「それだって忘れていない。今だって言い過ぎたと……母さんに対して、あまりにもひどい言葉を言ってしまったと後悔している」
「その後悔をもってしても、母さんの嫌がる事はやめないんだ。全く恐れ入るよ」
「清人、頼む! もう時間がないんだ……!」
「知らないよ、僕は」
これ以上父さんの話を聞いていたくなくて、僕は再び階段を昇ろうとしたその時だった。ふいに、一階の廊下の奥にある父さんの書斎の大きなドアがキイィ……と、重い音を立てながら開き始めたのは。
まずいとも、嫌だとも、冗談じゃないとも思った。
まだ片手で数えるほどしか会った事はないが、遠慮気味に何か話そうとするおどおどとした態度が毎度鼻に付く。僕のご機嫌を窺うように、ちらちらと上目づかいでこっちを見てくる目も気に入らない。そして何より、僕の名前を呼んでくるところが苦痛で仕方なかった。
「会うつもりはないから」
最後にそう言うと、僕は今度こそ階段を一気に駆け昇った。「清人!」と叫ぶ父さんの声が聞こえたが、それも無視して自室に飛び込んだ。
しばらくして、床の下の方から二人分の声が聞こえてきた。さすがに何を言っているかまでは分からないが、少なくとも僕や母さんとのものよりもずっと家族らしい雰囲気が伝わってきて、ものすごく悔しくなった。
「僕も殴ってやればよかったな……」
きっと母さんは、僕の為に父さんの左頬を空けておいてくれたんだろうに……。そう思ったら余計に悔しくなったが、それを発散する術はすっかり冷めてしまったカツ丼をドカ食いする事しかなかった。
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