第39話

「おう、サナ来たか」


 上代さんの声に応えるように三階のフロアの奥からのっそりと出てきたのは、五十代くらいに見える小太りのおじさんだった。短めだが梳かしていないとすぐに分かる乱れた髪型の下にくたびれた開襟シャツとシワだらけのズボンを合わせていて、接客業をしているとはとても思えない。上代さんが「道楽でやっている」といった意味が分かったような気がした。


 おじさんはよほど嬉しいのか、僕達には一切目もくれないで「久し振りじゃねえか~」と上代さんの頭をその分厚い手のひらで撫で始める。セットが乱れるからやめてよと上代さんが嫌がる素振りを見せても、なかなかやめようとしなかった。


「もう、マジでやめてってば」

「何でだよ。ちっせえ頃はめちゃくちゃ喜んでたくせに。兄貴や親父達に怒られて大泣きしても、俺がこれやってやったら一瞬で泣き止んだじゃねえの」

「何年前の話してんのよ。いいから早く部屋通してよ」


 ほらほらと、上代さんはおじさんを回れ右させて、そのまま背中をぐんぐんと押す。学校では見る事すらない彼女のそんな様子に僕と井上君は笑い飛ばしてやる事もできずに押し黙るが、転校してきたばかりの瀬尾さんには通じなかった。


「そのおじさんと仲いいんだね、上代さん」


 フロアの中に入り、かなり狭い廊下を最後に歩いていた瀬尾さんが突然そんな事を言う。僕達以外に客はいないらしく、カラオケ店なのにしんと静まり返っていたその廊下で瀬尾さんのその言葉はよく響いた。


「おっ? 何か話が分かりそうな子が来てるのか?」


 上代さんが少し慌てたような顔をする中、おじさんはそんな事など全く気にも留めない様子でくるりと振り返った。


「ああそうよ、サナは俺の自慢の姪っ子なんだ」

「そうなんですね。確かに上代さんおしゃれだし、かわいいし」

「それだけじゃねえぞ、お嬢ちゃん」


 おじさんが人差し指を立てて、ちっちっと左右へ小刻みに揺らした。


「悪い事は言わねえ。今のうちにサナからサインをもらっておいた方が賢明だ」

「……? どうしてですか?」


 そう不思議そうに尋ねたのは、井上君だった。おじさんはふふんと自慢げに笑いながら、その野太くて少し毛むくじゃらな両腕を厳つく組んだ。


「そりゃあ、サナが将来スターになる女だからだよ。俺は確信してるんだ。高校を卒業する頃になれば、世間の誰もがサナを知ってるくらい有名になって」

「……いい加減にしてってば!」


 だが、そんなおじさんの言葉を途中で遮ったのは、上代さんの怒声だった。僕達がそっちへ視線を向けてみれば、上代さんはものすごい目付きでおじさんをじろりとにらみつけていた。


「その話はやめてって、前にも言ったよね? こんな寂れた店に客連れてきたんだから、当然報酬は弾んでもらうから」


 少し低い声でそう言った後で、上代さんは「で、部屋どこ?」と締めくくる。おじさんが「……五番」と短く答えると、上代さんはすたすたと早足で廊下の奥へと向かっていった。


「……お、おい上代!」


 井上君に続いて、僕や瀬尾さんも慌ててその後を追う中、背中の向こうからおじさんの「ごゆっくり……」と今度は寂しそうな声が聞こえてきた。

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