第33話

「何か用でもあるの、泉坂?」

「いや……そこ、僕の下駄箱なんだけど」


 僕が視線を下駄箱の方へと向けると、上代さん達もつられるようにそっちに目を向ける。そして、それぞれがふんっと短い息を吐くと、下駄箱から少し離れてくれた。


「……これでいい?」

「うん、ありがとう……」


 わざわざお礼を言うほどの事でもなかったかもしれないが、後で面倒な事になるのもごめんだ。僕は淡々と言葉を紡いで、下駄箱の中にある自分の靴を取り出し、上履きと履き替えた。


 その時、僕の靴をちらりと見た上代さんの口からこんな言葉が漏れた。


「きったない靴。いい加減買い替えればいいのに」


 分かってるよ、そんなの。昨日、自分でもそう思ってたところだ。


 どこもかしもがくたびれてみすぼらしい様になっているスニーカーは、まるで僕自身を映し見ているかのようだ。きっと上代さんの目にも、そんなふうに映っているんだろうな。


 僕はくすくすと笑いだした彼女達にこれ以上何か言うでもなく、昇降口を後にした。






 家の前に着き、玄関の鍵を取り出そうとした時、ふいにスマホがLINEメッセージの着信を知らせる音を奏でた。


 僕のスマホと繋がっている人間の数なんてたかが知れている。だから、たぶんまだパートから戻ってきていないだろう母さんからだと思って何の疑いもなくトーク画面を開いたのが失敗だった。


「え……」


 一瞬、呼吸をするのを忘れてしまっていたかもしれない。それくらい驚いた。何ヵ月ぶりか分からなくなってしまった、父さんからのメッセージだった。


『清人。明日は本当に無理なのか?』


 トーク画面を開いた事で既読が付いてしまったから、そのまま完全に無視をするという選択肢は消えた。どうしたものかと玄関先で少しの間悩んでいたら、近所の奥様方のうちの一人がこっちに向かって歩いてくるのが視界の端に留まった。


 まずい、これ以上あの人達の退屈しのぎのネタを投下してなるものか。


 僕は急いで鍵を取り出すと、そのままの勢いで玄関の鍵を開けて家の中に入る。そして、かつての仕返しとばかりにより短い言葉で返してやった。


『無理』


 ざまあみろと思いながらスマホをズボンのポケットにしまおうとしたが、ふと気付いてしまった。


 昨日言った通り、父さんは明日の夕方にはこの家に帰ってくるだろう。そして、おそらくは僕の事を待ち続けるに違いない。


 少しでも家に帰る時間を遅くしたいところだが、元々出不精なところもある僕一人ではそう長い時間を潰せる場所など知らないし、行けるはずもない。せいぜい、街の一角にある本屋で一時間も居座れればいい方だ。


 さあ、どうしたものかと玄関先で突っ立ったまま考えていたら、何故か頭の中で瀬尾さんと井上君の顔が浮かんできた。


 あれだけそっけない態度を取ったというのに、頭の中の二人はずっと笑顔で僕の返事を待っている。そんな二人を利用するみたいでちょっと気が引けたが、数秒後、僕の手はスマホを操作していて、別のトーク画面を出していた。


 『井上公孝』という名前と、一本のハードルが映ったアイコンが表示されたトーク画面。今のクラスになって少し経った頃、ほぼ強引にIDを交換させられたものの、僕の方からは一度だってメッセージを送った事はなかった。


 だからだろうか。僕が『さっきの話だけど、ちょっといいかな?』というメッセージを送れば、何秒と経たないうちに既読が付いた上、井上君からの返事がいくつもやってきたものだから、話が進まなくてとても困った。

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