第32話
「その呼び方、やめてほしいって言っただろ……」
ちょっとだけ声を低めてそう言ったけど、僕の苛立ちを見抜けなかったのは瀬尾さんだけじゃなかった。
瀬尾さんのその言葉を聞いて、何故か井上君はぱあっとひどく明るい表情をしてみせ、そのまま僕の両肩をがしりと掴みながら「やっぱりな!」と嬉しそうに言い出した。
「泉坂。お前、昨日は相当手を抜いてたな?」
「え?」
「おかしいとは思ってたんだ。どう見たって俺と同じかそれ以上のはずだし、どこか痛めてる訳でもなさそうなのに、あんなひどいタイム出すなんて……。なあ、今から根本先生を説得するから、もう一回一緒に走ってくれないか? それから、明日は瀬尾さんの歓迎会を一緒に盛り上げよう!」
いやいや、何でそんな話になるんだよ。見当違いも大概にしてくれ。
あの頃と違って、僕は井上君みたいにがむしゃらに鍛えてなんかない。あれが、今の僕の全力だった。それ以上でも以下でもないし、あの頃の夢が叶いっこないと分かった時から、もうずっと変わりっこない現実だ。
なのに、瀬尾さんが余計な事を言うものだからややこしい事になったじゃないか。本当にやめてくれ。この変わりっこない現実を抱えて、僕はこれからも目立つ事なくそれなりの場所で生きていくんだから。
「……全部お断りだ」
井上君の腕を手早く払いながら、僕は言った。
「瀬尾さんも何を勘違いしてるか知らないけど、僕は足遅いよ? そんな小さい頃の話を持ち出されても困る」
「え……」
「前から思ってたけどさ、井上君も僕にありえない期待はしないでほしい。本当に僕は、そんなんじゃないんだから」
それじゃあ……と言葉を締め括って、今度こそ僕は二人に背中を向ける。そのまま廊下を出て先に進んだが、二人が後を追ってこない事にやっと安堵の息をつく事ができた。
そのまま昇降口まで足を止める事なく進んだら、そこでぺちゃくちゃとおしゃべりに興じている上代さん達と出くわした。
彼女達も確か部活には入っていなかったはずだから、毎日どこかのお店に行って放課後を悠々自適に過ごしているって感じだ。だったらいつまでもこんな所で騒いでないで、さっさと街の方へ行けばいいのに……。
ちょうど僕の靴が置いてある下駄箱の前を塞ぐようにして立っている上代さん。僕はそんな上代さんの真後ろに立って、早く退いてくれないものかとそわそわしてしまう。すると、そんな僕の気配を察したのか、上代さんが突然ばっとこっちを振り返ってきた。
まさか僕がすぐ後ろにいるとは思わなかったようで、上代さんの両目が大きく丸く見開いたが、その次の瞬間にはもういつもの強気な目付きに変わっていて、「……何?」と僕をにらみつけてきた。
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