第14話
玄関の鍵を開けて中に入ると、土間にはもう母さんの靴があった。
そう言えば、今日は早出のシフトだったっけと思い出したと同時に、じゃあさっきの奥様方と会ってしまったんじゃないかと少しだけ心配になる。僕は急いで靴を脱ぎ散らかして、中へと入った。
廊下とダイニングを繋ぐドアを開ければ、キッチンの方からカレーのいい匂いが漂ってきていた。シーフードカレーは僕の好物だ。ガチャリと開け広げたドアの音に気付いたのか、鍋の中身をかき混ぜていた母さんがこちらを振り返りながら「お帰り」と言ってきてくれた。
「パート先でいいエビをもらってきたの、大振りよ」
カウンター越しに見える母さんの顔は、ひどくご機嫌だった。よかった、この様子ならあの奥様方とは会っていないなと僕はほっとした。
「おかわりある?」
「もちろん。たくさんあるからね」
「楽しみだな、とりあえず着替えてくるよ」
安心した僕は空っぽの弁当箱をカウンターの上に置くと、いったん自分の部屋へと向かった。
「……ねえ、清人。ここから引っ越さない?」
この、たった二時間後の事だった。エビがたっぷり入ったシーフードカレーに舌鼓を打ち、すっかり満腹になった腹にそっと手を添えた瞬間、母さんの口がそんな言葉を紡いだのは。
だが、僕はそんな母さんの言葉を自分でも驚くくらい冷静に受け止めていた。まあ、いつかきっと、母さんがそんな事を言ってくる日が必ず来るだろうなと心のどこかで覚悟をしていたからだろう。僕は持っていた麦茶入りのカップをそっと食卓の上に置いてから言った。
「父さんは、置いていくの?」
「当然でしょ?」
母さんが言った。
「お父さんは他に居場所があるもの。もう私が我慢する必要はないと思うの。でも、清人は」
「別にいいよ」
まるで僕という存在が決断を阻んでいたみたいな口ぶりをしようとする母さんに、僕ははっきりと言ってやった。
「僕もいい加減うんざりしてたんだ。顔を合わせれば、息子の前でも生々しい事を言ってのける夫婦ゲンカを見るのは」
「……ごめんね、清人。でもお母さん、どうしても我慢できなくて」
「別にそれ自体を悪く言うつもりはないよ。ただ、うんざりしてるだけ」
そして、もっと言えば興味がない。さすがにそこまで母さんに話すつもりもなかったが、嘘偽りのない僕の本心なんだから仕方なかった。
「だから、母さんがそうしたいならそうしていいよ。近所のおばさん達の目もウザいんだろ?」
僕がそう言うと、母さんは困ったようにうつむく。ああ、やっぱりな。僕はふうっとため息をついた。
「本当に決心が付いたら、言ってよ。手伝える事は何でもやるから」
カレー皿とサラダが入っていた小さな器を持ち上げながら食卓の椅子から立ち上がると、母さんが今度は心配そうな表情をこっちに向けてきた。
「本当にごめんね、清人。学校でお友達もいるでしょうに……」
「そんなの全然いないから、大丈夫だよ」
「え? でも今朝、金曜にお友達と約束があるって」
「あんなの、父さんを無視する為の出まかせに決まってるだろ?」
僕はきっぱりと言った。
「そういうのも、これからの事も……特に問題ないって思ってるから」
興味がない。その言葉を何とか問題ないというふうに言い換えて、僕はカレー皿と器を運んだ。
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