第7話

……しまった。とんだマヌケ野郎だ、僕は。


 さっきスマホで今日が水曜だと確認したのに、一時間目が体育である事をすっかり失念していた。そして、父さんに「金曜は友達とカラオケに行くから」なんてつまらない嘘をつくんじゃなかったと、心底後悔した。


 まずは前者。これは学校に着いて、自分の教室に入った瞬間に思い出してしまった。黒板の横に張り出されている時間割表を見てしまった事もそうだけど、一番の理由は……。


「あ、泉坂いずみざか! おはよう!」


 ああ、やっぱり。僕の右足が引き戸のレールを越えた途端、その教室の中からひどく大きな声がこっちに向かって響いてきた。やめとけばいいって毎朝思っているのに、今日もまた反射的にそちらの方に顔を向けてしまえば、まだ一時間目まで三十分近くあるっていうのに、もう体育着に着替えている男子生徒が一人いた。


 泉坂は、僕の名字だ。だが、この少し長い名字を使って僕の事を気安く呼んでくる奴なんて、このクラスでは彼くらいだ。他のクラスメイトとはほとんど話をしないから呼ばれる事自体がほぼ皆無だし、担任や他の学科の先生に至っては孤立気味な僕をそれなりに面倒だと思っているのか、極力関わってこようとしなかった。


 だから、正直言って本当に困る。彼が僕の名字を呼ぶと、クラスの中がとたんにざわつくんだ。中には少し大きな声で「井上いのうえの奴、また話しかけてるよ……」と呆れ返ったふうに言ってくる奴もいる。


 やめてくれよ、それはこっちのセリフだと何度言ってやりたかったか知れない。でも僕が何をどう言ったところで、教室の中でむなしく掻き消えるだけ。そんな事に構うだけ時間のムダだと分かっている僕は、ふいっと顔を逸らしながら「……おはよ」と小さな声で返した。


 だが、今日の彼――井上公孝いのうえきみたかはいつもよりさらにしつこかった。


 彼のものとは真逆の位置に置かれている右端最後列の僕の席にまでつかつかと歩み寄ると、椅子に座ろうとしていた僕の肩をガシッと掴みながら意気揚々とこんな事を言ってきたのだ。


「なあ。今日の体育、真剣勝負で頼むぞ」

「……は? 何言って」

「楽しみにしてるからな」


 あからさまに嫌な顔をしてみせる僕の事など全くお構いなしって感じで、井上君は気安く僕の肩を二度三度と叩くと、元いた場所へと戻っていく。クラスの誰ともまともに交流していない僕だが、井上君はその中でも一番苦手だ。


「……やっぱり、あんな嘘をつくんじゃなかった」


 井上君の背中から目を逸らしながら、僕はぽつりとつぶやいた。

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