第113話

すると。


「……何ですか、君達は。今、とても大事な話をしているのだから、入室は遠慮しなさい」


 正臣の掛け声にこれでもかと言わんばかりに嫌な表情を浮かばせながら振り返ってくる一人のスーツ姿の男がいた。


 年は正臣と同世代くらいだろうか。乙女と向かい合うように座っていたその男は、縁の太いメガネの上に眉間のシワを深く刻み付けていて、イラついている様子を全く隠す事なく、デスクの上に何度も右手の人差し指を叩く。その周辺には何かしらの書類が散らばっているし、ストコンの液晶画面にはここ一か月での『ハッピーマート所橋一丁目店』売り上げデータが鈍い光とともに浮かび上がっていた。


「そういう訳にはいきやせん。俺達、これからお勤めをさせていただかなくてはならないんで」


 正臣は男から全く目を逸らす事なく、そしていつも通りに前かがみになって挨拶の口上を始めた。


「この店の元締め……もとい、SVさんとお見受け致しやした。お初にお目にかかります。手前は訳と縁あって、この店の夜勤帯にて草鞋を脱いでおります永岡正臣という半端者でございます。まだまだ駆け出し者なんで、堅気のお勤めには慣れてないところもたくさんありますが、何卒よろしくお頼み」

「木下さん。またこんな訳の分からない方を採用したんですか⁉」


 だが、正臣の口上が終わるよりもずっと早く、SVの男の非難めいた言葉が乙女に向かって放たれた。もちろん、正臣の事など全く一瞥もせずに。


 これには正臣も驚いたし、ふつふつと怒りが湧いてきた。任侠の世界において固めの杯や手打ちのナシを交わす際、相手の口上には真剣に向き合う必要がある。一言たりとも聞き漏らす事はご法度だ。それを邪魔したりないがしろにしようものなら、大きな抗争にだって繋がりかねない事態に陥る。ゆえに極道にとって腕っぷしや取引の駆け引きよりも、堅苦しいとまで思えるほどの口上こそ時には最重要事項となる。

 

 そうだというのに、この野郎は……と、正臣のこめかみに青筋が立ったのを見て取ったのかは定かではないが、彼の後ろに立っていた浩介が慌てて「お疲れ様です、勅使河原てしがわらさん」と口を挟んだ。


「確か、今日の出勤は午後五時の約束でしたよね? もう十時になるんですけど……」

「……? ああ、君は確か新本君だったか。まだこの店で働いていたんですね」


 ふんと鼻を鳴らしてそう言うSVの男――勅使河原に、正臣の短い導火線はあっという間に焼き切れた。勅使河原の正面で少ししょんぼりとしている表情の乙女が視界に入った事も含めて、「ちょいとよろしいですかい?」と正臣は、やや強引に彼の真横に立った。

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