第96話
「こ、こんにちは……」
雫の方も、まさか『ハッピーマート所橋一丁目店』以外で会えるだなんて夢にも思っていず、思わず自分の頬のあたりを空いている方の手でさする。メイクは崩れていないかとか、髪は変な方向に跳ねてやしないかとか気になって仕方がない。
だが、男はそんな雫の焦りに全く気付く様子もなく、「君も、買い物?」とおずおず尋ねてきた。
「は、はいっ!」
雫は『ハッピーマート所橋一丁目店』のカウンターの中にいる時よりも声を張り上げて答えた。
「わ、私、実家を離れて一人暮らしだから、自分でごはん作らなきゃで」
「え? それは、ますます大変だね。でも、君はまだ高校生でしょ? ちょっと頑張りすぎじゃないか?」
制服姿の雫を見て、男が感心とも憐憫とも取れるような声色で言ってくる。その一瞬、雫はある違和感を覚えたが、わざとそれを無視して「大丈夫です」と答えた。
「ちゃんとフォローしてくれる人もいますし、しっかり食べて寝てますから!」
「そっか……。でも、あんまり無理しちゃだめだよ。今は学生気分を存分に味わっておかないとね」
そう言うと、男は雫が取ろうとしていたキャベツを避けて別の物を掴み取る。たったそれだけの仕草が何故かやたらとかっこよく見えて、雫の次の言葉はかなり上ずってしまった。
「……お、お客さんも、たくさん買ってますね」
「お客さんって……ここ、君のコンビニじゃないでしょ?」
男はそう言って、笑った。とても優しい笑みだった。
「せっかくの非番だっていうのに、祖父にこき使われての買い出しだよ。還暦もとっくに過ぎてるっていうのに、ものすごい大食漢でね。何を作っていいか悩んでるところ。とにかく安いものを片っ端から買おうかなって。君は? 今夜は何を作るの?」
「え……ロールキャベツを作ってみようかなって。兄が好きなんで」
「へえ。お兄さん喜ぶといいね」
『ハッピーマート所橋一丁目店』で買い物をしてくれる時よりも、長く会話が弾んでいる。その事実に、雫は天にも昇るような気持ちになった。
この時間が、一瞬でも長く続いてくれたらどんなにいいか。そうだ、せっかくだし名前とか聞いてみようかな……。
胸の中の鼓動が、これまでの人生の中で一番速く波打っている。大丈夫、ただ名前を聞くだけなんだからと雫は自分に何度も言い聞かせた。
優しい笑みを浮かべたまま、手に持っているキャベツを見つめている男に、雫は一歩分だけ近付いてから「あ、あの!」と声をかけた……が、その時だった。
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