第94話

「……ぼ、僕は認めませんから……!」


 ほんの少しの間、バックヤードの中の空気がひどく暗く重苦しいものになったと感じていた浩介だったが、意外にもその沈黙を最初に破ったのは翔太郎だった。


「僕の方が、あのイケメンよりもずっと多くこの店で雫ちゃんと接してきたんだ。雫ちゃんのいいところだって、あの人よりたくさん言える自信あるんですから……!」


 人は変わる時はとことん変わるものだなあと、浩介はどこか感心にも近い気持ちでそう思った。


 『ハッピーマート所橋一丁目店』にやってきたばかりの翔太郎ときたら、それはもう陰気で臆病で、その上、とんでもないレベルの人見知りだった。


 とにかく声が小さい。カウンター越しというわずかな距離しか離れていないお客さんの耳にも届かないほど、蚊やトンボの羽音並みの小声で接客するものだから、よくクレームになった。


 これでは良くないと、何度か注意を試みようとした浩介だったが、そのたびに翔太郎はひどく怯えてしまい、自分の頭を庇うように押さえながら、その場にしゃがみこんでいたものだ。


『ごめんなさい、ごめんなさい……。次はもっと上手くできるようになりますから、だからひどい事しないで下さい。お願いします……!』


 ああまで怯えられてしまっては、それ以上浩介にできる事になど何もなく、注意や指導に関しては乙女に委ねるしかなかった。それだけ扱いに面倒臭さを生じていたというのに、今の翔太郎には当時の面影はほとんど見受けられない。


 恋って奴は、ここまで人を変えてしまうもんなんだなあと、浩介は翔太郎の成長ぶりをしみじみと噛みしめる一方で、全くブレる事のないもう一人に目を向けながら、またため息を吐き出した。


「それだけは全くもって同感だぜ、天野ちゃん……!」


 ずいぶんとドスの効いた声でそう言ったのは、正臣だった。


「俺だって、お嬢の事は赤ん坊の時から知ってるんだ。おむつだって替えて差し上げたし、何なら体のどこにほくろがいくつあるかも分かってんだぜ。それをあんなぽっと出の兄ちゃんにお株取られたとなったら、俺のこれまでのメンツは全て丸潰れだぁ。そうなったら、奴にはお嬢の純潔無垢な体よりコンクリ抱かせてやらなきゃ気が済まねえってもんよ……!」


 ぎゅうっと両手のこぶしを握り込みながら、そんな物騒な事を言う正臣と、意味はよく分かっていないがとにかく同志だと感じ取ってこくこくと頷く翔太郎。そんな二人を見ながら、浩介は「小泉も罪な女だな……」とつぶやいた。

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