第90話

「そ、それは……!」

「へい! 本日午後イチからの新商品『ミラクルチョコシフォンケーキ』でございやす! 俺と天野ちゃんからの上納品シノギ、どうぞお納め下さい!」

「ど、どうぞ雫ちゃん。この間のごはんのお礼だから……!」


 いつものように、正臣は大きく足を開いて前屈みに。そして、翔太郎は緊張で少し身じろぎながらも、机の上のケーキを促した。


 雫の好物がチョコ全般である事は承知している二人だったが、午後イチで入荷されてきた数量限定の新商品を最初に目にした翔太郎が、休憩時間に入るなり、正臣に連絡したのだ。「雫ちゃんにこの間のお礼に、今日の新商品をおごるってのはどう思う?」と。


 連日の夜勤作業に追われて、この時間はまだ夢の中にいた正臣も、翔太郎の口から雫の名前が出てはのんきに寝ていられず、一気に覚醒して飛び出してきた。そして丁半博打で、どちらが雫にごちそうするかの勝負をしていたという訳だ。


「本当は僕一人でお金出すつもりだったけど、永岡さんが聞かなくて……」

「おいおい、天野ちゃん。堅気さんにお嬢への上納品シノギを肩代わりさせる訳にはいかねえから、ツボ振りで決めてただけだろ? まあ、お互いに勝ち率同じくらいだから、決めようなくなったけどな。まあ、そんな訳なんでお嬢! 遠慮なく……」

「ごめん、いらない」


 ピシッ……!


 まるで空気の中に亀裂を奔らせたかのような、きっぱりとした雫の返事に、正臣と翔太郎は身動きが取れなくなった。


 とりわけ、正臣の方は大きな動揺を全く隠す事ができず、少しの間、しんと静まり返ってしまったバックヤードの中、やがてぶつぶつと言葉を発し始めた。


「あ、ありえねぇ……。お嬢が、お嬢がチョコをいらないなどと……!」

「な、永岡さん?」


 とある有名パティシエ監修の、一個ワンコインは軽く超してしまう限定高級スイーツだ。雫なら喜んで受け取ってくれるだろうと期待していただけ、翔太郎もショックを受けていないといえば嘘になる。だが、そんな自分よりも遥かに取り乱している正臣の姿を見てしまうと、逆に冷静になってしまい、彼の方に振り返った。すると。


「お嬢! どこかやられちまってるんですか!?」


 そう大声で叫びながら、正臣は雫に詰め寄った。


「三度の臭い飯よりチョコがお好きなお嬢が『いらない』などと……見たところお怪我はなさそうだし、何かしらの病気かもしれません! 今すぐ闇医者に診てもらいやしょう!」

「い、いや。そんなんじゃなくて。チョコって食べると太っちゃうでしょ。だから……」

「太る!? 何を言いますか! 姐さん譲りのスレンダーボディは見事に健在……はっ、まさかお嬢! 太るのを気にして薬物ダイエットなどとバカな事を始め」

「……な訳ないでしょ!!」


 動揺しきっている今の正臣の腹に、雫の正拳突きが見事に決まる。それと同時に、雫の出勤十分前と翔太郎の休憩終了を告げる独特のチャイム音がバックヤード内に奏でられた。

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