第89話
出勤時間二十五分前。雫は『ハッピーマート所橋一丁目店』のバックヤードに「おはようございます!」と元気よく挨拶しながら入ったのだが、そのドアの向こうに広がっていたのは、できる事なら二度とお目にかかりたくない光景であった。
「……さあさあ、天野ちゃん! 丁半どっちでぃ!?」
「う~ん……、じゃあ次は丁で?」
「そうかい。それじゃあ、勝負……って、何ぃ~!?
「えっ、えっ!? 何だよ、永岡さん!?」
確かに今日のこの時間、翔太郎は四十五分間の休憩の真っ最中であるから、バックヤードにいるのはまだ分かる。だが、そんな彼の目の前にサイコロとツボを手にした正臣が、意気揚々と丁半博打をしているとは夢にも思っていなかった。
さっきまでのウキウキ気分が一気に消え失せそうになり、雫は思わず近くの壁に寄りかかるも、そんな彼女にまだ気が付かない上に興奮しきった様子で正臣は翔太郎に詰め寄った。
「おいおい、
「え? い、いや……僕は家族に迷惑かけちゃった分、将来はがっつり固い仕事に就こうかなって」
「おいおい、男ならドーンと野望を持って生きねえと! よし分かった! 次は天野ちゃんの将来設定を賭けて、もうひと振り……」
正臣が、最後まで言葉を続ける事はできなかった。雫の渾身の蹴りが彼の脇腹に思いきり入ったからだ。正臣は「ぐはあっ!?」と間抜けな声をあげて、座っていたパイプ椅子から転げ落ちた。
「ク、クソが……! どこの組の鉄砲玉……って、お嬢!?」
「一般的かつ神聖な職場に何てただれた物を持ち込んでるのよ、マサ!? 天野君も、何でマサの悪い遊びに付き合っちゃってんのよ!?」
「そ、それは……雫ちゃんが来るまでにって、永岡さんから誘われて」
「そうですぜ、お嬢。これは堅気で言うところの男同士の熱い友情のやり取りという奴でしょう!?」
例の件が終わって少し経った頃からだろうか。翔太郎は正臣の事を『子供部屋おじさん』だなんて呼ばなくなった。それどころかほんの少し距離を縮めたのか、わりとごく普通に会話をするようになったまではよかったのだが。
「そんな事言って……! うちのバックヤードは賭け事の裏ワザを提供する場所じゃないの! 昨日だって、ポーカーのイカサマテクニックを小百合さんに意気揚々と教えてたでしょ!?」
「ご安心を、お嬢! 手品みたいなもんだと付け足してありますんで!」
「そんなお金に汚い手品があってたまるもんですか!」
まだ懲りないと見える正臣に、雫が追撃のひと蹴りを放つも、さすがにそう何度も食らうはずもなく正臣はいとも容易くかわした。
「あ、そうだお嬢。学校でのお勤め、ご苦労様でございやす! こちら、ご用意しておりますんで店でのお勤め前に召し上がって下さい!」
「え……?」
余裕綽々に躱しながら、正臣は翔太郎の横をすり抜け、机の上に手をかざす。その手の先にあった物を見て、雫は思わずごくりとつばを飲み込んだ。
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