第88話

その後も機嫌の良さが治まらなかった雫は、帰りのホームルームが終わった放課後、一目散に教室を飛び出して、学校の外へと駆け抜けた。廊下の途中で、誰かから「小泉さん、今日のパーティー本当に参加しないの?」と呼び止められたような気もしたが、そんなものは完全無視を決め込んで。


 何がパーティーだ。そんなものはどこぞの組がセッティングした合同お見合いか、最悪の場合、甘ったるくて嫌な臭いがあたり一面にむせ返っていると聞く薬物パーティーの可能性だってある。どっちに転んだって、そんなものはお断りだと雫は思った。


 雫は、今の生活にかなりの満足感を覚えていた。


 確かに雫はまだ未成年で、保護者である相良孝蔵の庇護が必要な立場ではあるが、成人式を迎えたら、かつて凛とした生き様を見せてくれた母・晶子のように相良組とは縁を切って、完全に独り立ちをしようと思っている。遠縁の人達からは渋がられているが、その際にはきちんと手続きをした上で、小泉の戸籍に再び入れてもらうつもりだ。


 だから、今の生活はその時の為の準備期間だと雫は考えている。乙女が所有しているアパートでの一人暮らしなので、朝の時間と諸々の家事を苦痛に思ってしまう事もあるのは若さゆえに仕方ない部分もあるかも知れないが、あと数年先の未来の為だと考え直せば、その苦痛もだいぶ和らいだ。


『極道に関わる人生なんて、絶対に嫌! 私はママと同じように、普通の女の子として生きていきたいの! そんな事すら叶えてもらえないのなら、あんたともお兄ちゃんとも家族の縁を切ってやる!!』


 孝蔵や優也に向かってそんな啖呵を口に出したのは、もうかれこれ一年ほど前になるだろうか。本当ならそのまま家出をしているところだったが、そこまでの覚悟を見せるならと前置きした孝蔵から、乙女が経営しているコンビニ『ハッピーマート所橋一丁目店』を紹介された。


 俺の昔なじみで、唯一心から信頼している堅気の人だと孝蔵に言われたが、正直、直接乙女に会うまでそんな言葉など全く信用していなかった。極道なんてやってる父親と仲がいいなんて、絶対にろくでもない人間に決まってると警戒していた雫だったが、実際に会ってから十分も経つ頃にはすっかり心を許してしまっていた。


『コウちゃんの気持ちも分かるけど、やっぱり優先するべきはこれからの人生を生きる若い雫ちゃんの気持ちよ? 私は雫ちゃんをしっかり応援するから、居たいだけここに居てね?』


 そう言って、寝る部屋とバイトの面倒まで見てくれている乙女には、本当に感謝しかない。時々、作りすぎたからとうそぶいておかずを何品か分けてくれるのも嬉しいし、優しい人だなとそのたびに尊敬する。『ハッピーマート所橋一丁目店』の仕事も楽しくてやりがいがあるし、雫にとって心地いい居場所になっている。


 まさかそんな居心地がいい場所に兄妹分の契りを交わした男までやって来る事になるとは夢にも思っていなかったが、それ以外の事を考えれば、一緒に働く同期の皆もいい人達ばかりだ。乙女は言わずもがな、小百合も浩介も、何故か自分と目が合うと途端に挙動不審っぽい行動に出る翔太郎も……。


 そして今、雫の中でその居心地の良さがさらにレベルアップしようとしている。信号待ちの横断歩道の前でスマホの表示時間を確認してみれば、今日の出勤時間まであと三十分ほどだ。


(よし、これなら充分間に合う! 今日もあの人、来てくれるかなぁ……)


 雫の口の端が優しく弧を描くと同時に、歩行者用の信号が青に切り替わる。『ハッピーマート所橋一丁目店』まで残り百メートルほどの距離を、雫はうきうきとした気持ちで駆けていった。

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