第四章

第87話

「……ふんふん、ふ~ん♪ ん~んぅ~♪」


 その日、相良雫の同級生である一人の女子生徒は、帰りのホームルーム前に行われる掃除の時間中、気持ちよさそうに鼻歌を歌いながら窓拭きをしている彼女の姿を見て、少なからず驚いた。普通であれば特別気にするほどの事でもないかもしれない光景だろうが、この女子生徒にとって相良雫の存在はそれだけ謎めいていたからだ。


 自分達が通っている高校が、他とは違う毛色のものである事は重々承知している。大半の生徒の出身が極道関係だし、彼女の家もまた小規模ではあるが、とある極道連合の傘下に入っている。雫の実家だって例外ではなく、ここ数年でかなりの勢力を伸ばし始めているあの有名な相良組だ。


 極道の家に生まれたからには、その勢力や家の大きさがどれだけ重要なステータスであるかを充分理解しておかなければならない。ゆくゆくはそれに釣り合った同じ極道の男と結婚し、家をさらに大きく発展させて、国家権力すら早々手を出せないような巨大組織に育て上げる。戦国の世じゃあるまいし、時代錯誤もいいところだと揶揄されても、それが極道の家に生まれた女の務めなのだと、物心つく頃から口酸っぱく教わってきた事だ。


 そんな極道の女の枠を、雫はいともあっさりと抜け出している。大半の生徒が恐れ、緊張感を高めている相良の姓ではなく、亡くなったという母親の旧姓を名乗っているし、寮生活を義務付けられている学校の規則すら破って、どこかで一人暮らしをしているとも聞いた。


 そのせいか、学校ではいつも不機嫌そうなしかめ面ばかり見せていたというのに、今日の彼女はずっとこの調子で鼻歌を歌い続けている。よっぽど嬉しい事でもあったのだろうかと好奇心が芽生えた女子生徒は、普段あまり会話というものをしてこなかったのに、ふいに雫と話がしたくなった。


「あの、小泉こいずみさん……」


 先日、男子生徒の誰かがふざけて雫を相良の姓で呼んでしまい、報復の回し蹴りを食らわされたと聞いた。そんな目に遭わないよう、女子生徒は雫が普段からそう呼ぶようにと言っている名字で呼びかけると、雫はぴたりと鼻歌を止めて「何?」と振り返ってきた。


 うん。やっぱり、以前と少し違う。表情がどことなく柔らかくなっているような気がする。そんな事を思いながら、女子生徒は少し緊張した声で言葉を続けた。


「ず、ずいぶんご機嫌だなあっと思って。何かいい事あったの?」

「まだ分かんない」


 そう言って、雫ははにかんだ。


「でも、あるかも知れないから。だから、ちょっと楽しみにしてるの」

「……へ、へえ。そうなんだ」

「うん。だから早く、掃除終わらせちゃおうよ。私、この後バイトあるから」


 ほら、やっぱり謎めいている。女子生徒は思った。


 相良組の娘であるなら、お金に困るなんて事は一切ないはずだ。相良組の組長はまだまだ現役だし、雫の兄も若いが相当のやり手だと聞いている。今は指名手配中で地下に潜っているという若頭も相当腕が立つという話だから、わざわざバイトなんてせず、花嫁修業の一つでもやればいいのに……。


 どうしてわざわざ、自分から面倒な道を選択するんだろう……。


 女子生徒は雫の意図が分からず、やがてそうっと静かに離れて掃除を再開し始めた。

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