第85話
すると、その時。
「……これ、下さい」
男はかなりゆっくりとした足取りでレジの前を素通りし、その近くにある棚から小さなガムを一つ摘み上げたかと思ったら、そのまま再びレジへと戻ってきてそれを差し出してきた。
一個108円と、実に標準的な値段である粒タイプのミントガムだ。手のひらにすっぽり収まってしまえるほど小さなそれを目の前に差し出されて、翔太郎はこの上なく戸惑う。
何故なら、これまでの彼ならば「こんな物に金を出すのが面倒くせえ」などと言って、幾度となく万引きで盗んできたからだ。それどころか、翔太郎にも同じ事を強要してきた事もあったし、万引きだけは死んでも嫌だと断り続けるたびにひどく殴られた。
なのに、今、目の前にいる男はズボンのポケットの中から何枚かの小銭を取り出して、レジの上へと一枚ずつ並べるように置いている。いや、こんな事は至極当然の行為ではあるのだが、悪の申し子のように思えてきた彼がその当たり前をきちんと行っている様がどうにも信じられず、翔太郎はぽかんとしてしまった。
「……これで、足りますか?」
男もかなり気まずいのか、翔太郎から目を逸らしたまま、ぎこちない敬語を使って口を開く。その事にはっと我に返った翔太郎は、慌ててレジの上の小銭を目で追うように数えた。その間、わずか二秒弱……。
「はい、ちょうど108円です」
十円玉と一円玉がやたら多かったが、それでもぴったり108円支払われている。その事にほっとしながら、翔太郎が営業トークの口調でそう答えた時だった。
「お前、金数えるのも超早いんだな。俺には無理だわ……」
ふいに男が呟くようにそんな事を言ってきて、翔太郎は思わす「えっ……?」と反射的に声を漏らしてしまい、直後にしまったと思った。高校時代は、男のどんな仕打ちに対しても反抗的な態度は何一つ許されなかった。今みたいについ声を漏らした時でさえも、「生意気に聞き返してんじゃねえよ」と乱暴な行為と共に吐き捨てられた事だってある。
だが、今はどうだ? そんなふうに呟いてきた男は、いつの間にか逸らしていた目をまっすぐ翔太郎の方に向けてきていて、これまで見せた事のないような表情を浮かべているではないか。
何故男がこんな言動を見せてくるのか全く分からず、翔太郎は押し黙ったまま、レジスターから出てきたレシートを手渡す。男は律義にそれを受け取ると、「こんな事、俺が言うのも変かも知れねえけど」と前置きしてきた。
「え、何……?」
「仕事、頑張れよな」
男はそれだけ言うと、今度は足早に『ハッピーマート所橋一丁目店』から出て行った。
思わず身構えてしまった翔太郎の耳に届いた、男からのエール。翔太郎は生まれて初めて訳の分からない感情にすっかり心が占められ、気が付いた時にはぼろぼろと涙を流していたが、高校時代とは全く違って、そこに嫌な気持ちは微塵も湧いてこなかった……。
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