第84話

それから数時間後の、昼前の事だ。天野翔太郎は全く落ち着ける事なく、『ハッピーマート所橋一丁目店』へと出勤してきた。


『もう大丈夫だから、安心して出勤してこい』


 実は、今日も休ませてもらおうと思っていた翔太郎だったが、乙女にその連絡をしようと持ち上げたスマホに浩介からのLINEメッセージの着信が来ており、うっかり既読を付けてしまった。メッセージを読んだという証拠を残してしまっては、元々真面目な性分である翔太郎にはこれを無視して雲隠れしようという思考など少しも湧いてこない。


 その上、先日の正臣の言葉が脳裏に蘇ってきてしまったのであれば、なおさらだった。


『天野ちゃん、もう一回だけ我慢できるかい? この俺が、あいつらはヤクザ以下だって事、きちんと証明してやるからよ』


 結局、あれはどういう意味だったのだろう? あの後、逃げるように雫ちゃんの部屋を出ちゃったから、まともな返事もできなかったけど……。


 そんな事を思いながら、翔太郎は昼のピークに備えて、ファーストフード類の補充調理に努める。朝勤担当の小百合との引き継ぎは無事に終わったし、夕方過ぎまで一緒に組む乙女はピークが来る前にと銀行へ出かけている。あと十分かそこらかすれば昼食を買い求める人達で溢れ返るだろう店内も、今は嵐の前の静けさとばかりに誰一人としていなかった。


 よし、今のうちにチキンをもっと作らないと。そう考えながら、翔太郎が調理スペースの業務用冷蔵庫の扉を開けた時だった。


 ピンポンパンポン、ピンポン♪ ピンポンパンポン、ピンポン♪


 ふいに、センサーで反応する入店音が小気味よく鳴り響いた。まだ乙女が帰ってくるには少し早いタイミングなので、お客様が来店してきたのだとすぐに分かった。冷蔵庫の扉を閉め、調理スペースから飛び出しながら反射的に「いらっしゃいませ!」と挨拶をする翔太郎だったが、その入店してきた者の顔を確認した瞬間、ざあっと血の気が引いた。


「よう……」


 入店してきたのは、翔太郎のこれまでの人生の中で、最も大きな苦痛と侮辱を与えてきた男であった。高校時代はずっと同じクラスで、いつどこにいても、彼の支配下に置かれていて、その気分次第で様々な仕打ちを課せられた。あの頃の恐怖に比べれば、それこそずっと子供部屋おじさんをしていたという正臣のすごみなど、小さな子供のかんしゃくレベルにしか思えないほどだ。


 そんな男が、いつもの取り巻きを連れ立ってくる事なく、一人でやってきた。高校時代、「一対一じゃないとフェアじゃねえよな」と何度かうそぶいてきては、一方的な暴力を振るわれた事もあった。その事を思い出してしまった翔太郎の体は、ぶるぶると小刻みに震え始めた。


(どうしよう。今は僕以外、誰もいない。柏木さんはとっくに上がったし、店長だってまだ当分帰ってこない。僕一人しかいないって分かったら、こいついったい何をしてくるか……)


 まるで全力疾走した後のように、翔太郎の心臓の鼓動が一気に速まる。緊張を隠したいのに、それをあざ笑うかのように冷や汗が頬を伝っていく。その上、体の震えが止まらないので、翔太郎はパニックになる寸前だった。

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