第三章

第60話

天野翔太郎あまのしょうたろうは『ハッピーマート所橋一丁目店』の昼勤を担当している、十九歳の青年である。


 両親と五歳年上の姉との四人家族であったが、ある事情から二年前に高校を中退。それから数ヵ月ほど引きこもりの生活をしていたが、地域支援のボランティアに勤しんでいた姉の仲介により乙女と知り合い、あれよあれよという間に『ハッピーマート所橋一丁目店』に住み込みで働く事になった。


「いい、翔太郎? あんたはやればできる奴なの。ただ、その自分に自信がなさすぎる所が欠点になってるっていうか、本当の実力も気持ちも出し切れていないだけなのよ。乙女さんにはよ~く頼んでおいたから、これだって自信が付くまで家には帰ってくるな。私も父さんも母さんも、本当の自分を取り戻したあんたが帰ってくるのを待ってるからね!」


 そう言って、自分を送り出してくれた姉には今も頭が上がらない。高校の卒業資格を得られやすいようにと、近所の中学校が運営している夜間学校への入学手続きをしてくれたのも姉だった。両親はそんな姉に気圧されたせいか何も口を挟まなかったが、翔太郎が家を出る際、ものすごくつらそうな顔で見送ってくれた事ははっきりと覚えている。


 頑張らなくてはと、『ハッピーマート所橋一丁目店』に勤め出した翔太郎は、日々を一生懸命に過ごしていた。


 高校を中退する時、両親には本当につらい思いをさせたし、何度泣かせてしまったか分からない。姉に至っては、どれだけ自分の代わりに怒らせ、心を擦り減らせてしまったか……。


 そんな厄介者同然の自分を見捨てなかった家族に報いたい。普通の道筋とはだいぶ違ったけど、早く一人前になって、かけてしまった苦労の倍以上の安心を与えてあげたい。ちゃんと学校を卒業して、真っ当に働いて、その後は……そう、素敵な女の子と恋をして、幸せな家庭が作れるような、そんな一人前の男になりたいと思いながら頑張っていたのだ。あの訳の分からない男が突然やってくるまでは……。






「……もう、マサ~! そんな事はしなくていいって言ってるでしょ!? 触んないでよ!!」

「何をおっしゃるんですか、お嬢! お嬢の玉のお肌にあんなものやこんなものができちまったらどうするんですか!?」


 アパート中に響き渡る男女の会話に、翔太郎は思わず己の部屋のど真ん中で飛び跳ね、そのままの勢いで玄関先から飛び出した。


 い、い、今のは間違いなく雫ちゃんと、あの子供部屋おじさんの声! あいつ、また性懲りもなく雫ちゃんの部屋に行ってるのか! ぼ、ぼ、僕だってまだ醤油を借りに行った一回しかないっていうのに! 今日こそ言ってやる。このアパートの壁は薄いんだから、もうちょっと配慮を持てって! あと、雫ちゃんに近寄るなって!!


 そう思いながら、雫の部屋の前に立った翔太郎だったが、それと同時にバァンとそのドアが開かれる。そして、彼の目の前に広がったのは、色とりどりでデザインもかわいらしいものばかりが揃った女性ものの下着の山だった。


「だ・か・ら! 洗濯物くらい自分でやるから、マサは触んないでってば!」

「ダメです、お嬢。お嬢に水仕事なんてやらせられません! どうかこのマサにお任せを……て、おいおい天野ちゃんじゃねえか。何か用か?」


 全く臆する様子もなく一枚のブラジャーを手にしている正臣と、それを懸命に取り返そうとする雫。そして、正臣とは真逆で全く見慣れていないものを見てしまって硬直している翔太郎の視線がかち合う。そして一瞬後、さらにとんでもなく大きな三者の悲鳴がアパート中に響き渡る事になった。

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